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Channel: 混沌の時代のなかで、真実の光を求めて
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民族の住み分け~カフカス(コーカサス) 1-2-1

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1-1-3 のつづき
 
1-2 北コーカサス(北カフカス)
 
  コーカサス地方のうち 大コーカサス山脈より 北に広がる部分で、黒海カスピ海
 挟まれた山がちな地である。
      ヨーロッパ側ロシア側から見ると 「 コーカサス山脈のこちら側 」にあたるため、
     英語では シスコーカサス(Ciscaucasus)、シスコーカシア(Ciscaucasia)とも呼ばれる。
 
    地理的には、北コーカサスという語は 大コーカサス山脈の北斜面と西端部(ロシア・
   グルジア国境のプソウ川より西の、山脈南側も含む)を指す。
   コーカサス山脈の北方に広がる 広大な ステップ地帯も 北コーカサスに含まれ、
   その北の境界は 一般に クマ=マヌィチ窪地カスピ海にそそぐクマ川、アゾフ海にそそぐ
    マヌィチ川により構成される湿地や縁故の多い低地とされ、これより 北のステップは
   東ヨーロッパ平原に含まれる。
   西端は アゾフ海と黒海をつなぐ ケルチ海峡、東は カスピ海で終わる。
 
  グルジア アゼルバイジャンの一部が 北コーカサスに属するが、大部分は ロシア連邦領
 である( 北カフカース連邦管区、2010年 南部連邦管区より分離 )。
          North Caucasian Federal District (numbered).svg
     
  1. ダゲスタン共和国の旗ダゲスタン共和国
  2. イングーシ共和国の旗イングーシ共和国
  3. カバルダ・バルカル共和国の旗カバルダ・バルカル共和国
  4. カラチャイ・チェルケス共和国の旗カラチャイ・チェルケス共和国
  5. 北オセチア共和国の旗北オセチア共和国
  6. スタヴロポリ地方の旗スタヴロポリ地方
  7. チェチェン共和国の旗チェチェン共和国
   行政府所在地は スタヴロポリ地方のピャチゴルスク
      人口: 893万3889人(2002年国勢調査)  
       内、ロシア民族は、298万8070人(33.45%)
 
 
   
   北コーカサスでは、コーカサス諸語系、インド・ヨーロッパ語族系、テュルク諸語系の様々な
  言語宗教をもった民族集団が入り組んでおり、これが 政治的不安定さにも
  繋がっている。
   これらの民族の間に、17世紀以降 コサックを先頭にして ロシア帝国が南下を
  始め、19世紀には オスマン帝国の影響は排除されて、北コーカサスは ロシア帝国に
  併合されたが、 ロシア化に抵抗する諸民族との戦争(コーカサス戦争)は ロシアを
  大いに苦しめた。
   チェルケス人など 北コーカサスの民族の中には ロシアの支配を逃れて オスマン帝国
  へ移住したものも多く、現在も旧オスマン領 シリアやヨルダン等には 北コーカサス系民族
  の末裔が多く住む。
 
    1991年12月のソ連崩壊後、 南コーカサスでは  グルジアアゼルバイジャンアルメニア
  各共和国が独立したが、北コーカサスにあった諸々の自治共和国(チェチェン・イングーシ
  など)は ロシアからの独立を認められなかった。
   これに対して、チェチェン紛争第一次第二次)をはじめとする 内戦 や テロが
  北コーカサスで起こり、独立運動組織 コーカサス戦線の他  イスラム原理主義基づく
  も戦闘を続けている。
 
 
                            2010年10月号
      ・・・ いずれにせよ、二つの民族集団(チェチェン人とチェルケス人)がロシアに対して長く反発
      してきたのは事実だ。1860年代 ツァーリは、反乱のやまない地域の人口を減らそうと、
      ひしめき合う馬車その他に人々を押し込んで、40万ものチェルケス人を主にオスマン帝国
      へと追放する強制移住策をとり、その途上で数千人が命を落とす事件が起きている。

       だが結局の所、イスラム諸国同様に、北カフカスの場合も現地における群衆動員と
      社会暴力の主要な要因を ナショナリズムに求めるのは無理がある。実際、イングーシ人
      は 乱暴な チェチェン人と民族的に近いが、より敬虔で物静かだし、イデオロギーやナショナリズム
      志向は弱いと考えられてきた。 だが、そのイングーシが 今や この地域でもっとも危険
      な共和国と化している。

       似たような不満を抱きつつも、ソビエトの崩壊を前に各民族集団は異なる反応をみせた。
      チェルケス人は状況を静観したが、チェチェン人は 銃を手に独立を目指した。近年、
      チェルケス人のナショナリズムは高まりをみせているが、その目的は分離独立を目指す
      ことでもなければ、武器に頼ることでもない。むしろ、チェルケス人のナショナリズムは、
      「ロシア人は征服の途上でチェルケス人を大量虐殺した」と考えていることに派生して
      いる。

       チェルケス人とチェルケス人ディアスポラの多くは、この事実が国際的に忘れ去られて
      いると考えている。
       
2014年に冬季オリンピックが開催されるのは、ロシアとの攻防戦でツァーリの軍隊
      との最後の戦闘が戦われた黒海沿岸の港町・ソチにおいてだチェルケスのナショナリスト
      たちは、オリンピック開催を利用して、この歴史問題への世界の関心と認識を高めたい
      と考えている。・・・
                            2011.03.13
                             2014.1.15
                                            
 
 
 
          面積: 50,300km2 人口: 2,576,531人(2002)
        首都:マハチカラ
 
     国名は トルコ語を意味する"dağ"に、ペルシャ語の地名の接尾辞"-stān"
   (スターン)が付いて、「山が多い場所」を意味する。
   山岳地帯が 人々の自由な行き来を妨げたため、非常に多様な民族が混在し
   今でも部族的な生活を送っている。 住民のほとんどは ムスリム
 
    主要民族 (人口割合)
     ・アヴァール人(32%),ダルギン人(15%),レズギン人(11.6%),タバサラン人(4%)、
      ルトゥル人ラク人ツァフル人、アグール人 (以上 コーカサス諸語の民族)
     ・クムイク人(12%)、 ノガイ人(8%)  以上 テュルク系民族)
     ・アゼルバイジャン人(4%)、ロシア人(3.2%)
 
 
     コーカサス諸語(カフカース諸語)
      主に コーカサス で話される3つの語族 (南コーカサス北西コーカサス北東コーカサス
     に属する約40種の言語の総称。
      この3つの語族が 一語族を成すかどうかは 古くから論じられてきたが、
     未だ結論を見ていない。しかし、北東コーカサス語族と北西コーカサス語族との間
     には、系統的な関係があるとする見方が有力。
 
      膠着語に属するが、コーカサス地方周辺の印欧語族テュルク諸語のいずれ
     とも類縁関係が見られない孤立した言語で、話者は 約500~600万人
     ( 内 グルジア語が約400万人)。
 
                        
      それぞれの民族集団は、自らの民族の利害を第一義的に考えており、
     それを守るためなら、武器を手にして戦うことをためらわない。このため、
     全てのグループが武装している。
      北コーカサス の武力衝突の大部分は 現在、ダゲスタンで発生している。ロシア
     の人権団体がまとめた、2012年4-6月の この地域での紛争の犠牲者総数
     は約360名、ダゲスタンの犠牲者が半数を超す。これらの犠牲者には、ロシア側
     の治安部隊、対抗する イスラーム武装集団の参加者、戦闘に巻き込まれた
           一般住民が含まれる。
 
      レスギン人は ダゲスタン南部とアゼルバイジャン北部に居住し、公然と分離独立
     して 自らの共和国を樹立する思惑を語っている。
           アゼルバイジャン
急進的な レスギン人は、独立闘争を行い、地域組織「サドワル」
     を結成している。
 
      ダゲスタン共和国で自爆テロ | ロシアNOW   2012年8月29日
        ロシア南部のダゲスタン共和国で28日、多くの住民にイスラム教の指導者として
       あがめられ、1万人以上の信者を抱えていた サイード・アファンジ・アリ・チルカウィ師
       (74)が、自爆テロの攻撃を受け即死した。このテロは、イスラム教の異なる宗派の間
       で進められていた和解を、妨害しようとして行われたとの説もある。アリ・チルカウィ師
       は積極的に和解の必要性を主張していた。 ・・・
        ダゲスタン出身のリズバン・クルバノフ下院(国家会議)議員は、哀悼の意を表した。
       「 アリ・チルカウィ師は、共和国に住む多くの人にとって精神的指導者だった。この死
       は恐ろしく、取り返しのつかない損失だ」。
          クルバノフ議員によると、師は議員との会話のなかで次のように語っていたという。
       もし 私の家に、私を殺そうと誰かが侵入してきても騒ぎはしない。私がその人間の
       血に対して、あの世で責任を負うわけではない。その人間が私の血に対して責めを
       負うのだから
                 また師は、自爆テロの犯人たちについて、こう述べていたという。そのような人々は、
               天国に行けると思っているが、天国の果てにだって近寄ることはできないし、その芳香
               すら感じることはできない 。・・・
 
             連続爆発で16人負傷 ロシア南部ダゲスタン - 産経ニュース  2014年1月18日
        ロシア南部ダゲスタン共和国の首都 マハチカラで17日、レストラン2階と近くで
       駐車中の車の2カ所で 連続爆発があり、警察官を含む16人が負傷した同共和国
       は ソチ冬季五輪の妨害を宣言したイスラム過激派の活動拠点ロシア治安当局者
       は 地元犯罪グループ間の抗争が背景とみられるとしている。ロシア通信などが報じた。
        レストランの2階で 何者かが手榴弾のようなものを投げつけて最初の爆発が発生。
       警察官が駆けつけた約15分後には、レストラン前に止まっていた車が爆発した。
        同共和国の当局者によると、今月27日に予定されている同共和国内でのソチ五輪
       の聖火リレー計画は 当初予定より 大幅縮小され、中部の都市 カスピースク のサッカー場内
       だけで行う考えを明らかにしている。(共同) 
 
 
   アヴァール人
           北東カフカス語族の言語アヴァール語を話し、宗教はスンニ派イスラム教
     人口 約104万人(2002
            ロシア連邦 81万5千人。大部分は ダゲスタン共和国の山間部に住む。
     またチェチェン共和国カルムィク共和国などロシア連邦内の他、アゼルバイジャン、
      グルジア、トルコにも住む。
 
      5世紀カフカースに建国されたキリスト教サリル5C-12C)が現代アヴァール人
     の先祖と伝えられる(サーサーン朝ペルシアにより創設されたともいう)。
      7世紀  ハザール イスラム帝国との戦いでは ハザール側についたが、
           9世紀には グルジアなど近隣のキリスト教国と結びハザールと争った。
     今も 10世紀の教会遺跡が残っている。
            12世紀初頭 サリル滅亡。
      13世紀 イスラームを奉ずる アヴァール・ハン国が成立、北のキプチャク・ハン国と同盟
     して栄えた。
      アヴァール・ハン国は 19世紀まで続いたが、ロシア南下政策で アヴァール人や
     北カフカースの人々は 抵抗を開始( コーカサス戦争 1817~64)。
     イスラム神秘主義ナクシュバンディー教団は、イマーム国を組織し、シャミール らを
     中心として ダゲスタンチェチェンを占領したが、1859年 ロシア帝国に投降した。
     1864年  ロシアによる コーカサス征服完了。
      (シャミール投降後、西部ではなおも コーカサスの先住民チェルケス人が抵抗運動を続け、
       チェルケス人虐殺が行われた。さらに戦後、西部のムスリム住民を中心にオスマン帝国
       への人口移動が行われた
     アヴァール人の一部は トルコへ逃れ 人口は減ったが、その後も ダゲスタンの
     主要民族であり続けた。
 
      第二次大戦後は 山間部からカスピ海沿岸に移住する人が多くなった。
 
        シャミール1797 - 1871)は、今も北カフカースのムスリムの尊敬を集めており、
          現在も続く ロシアの支配に対する抵抗運動の精神的な支柱となっている。
 
                                           平成24年4月10日
 
                             (つづく)
 
 
 

民族の住み分け~カフカス(コーカサス) 1-2-2

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1-2-1 のつづき
 
1-2 北コーカサス(北カフカス)
 
 1.ダゲスタン共和国(続)
  主要民族
  b.ダルギン人  共和国内の人口:429,347人(2002)
 
     北東コーカサス語族ダルギン語族 ダルギン語(ダルグワ語)を話す。
     ダルギン語は ダゲスタンの公用語で、表記はキリル文字
 
      ダルギン語は、ダゲスタン国内でも 異なる方言 (17以上) を含む六つの
           方言群に分かれている。
       他に カルムイク共和国に 7,188人、ハンティ・マンシ自治管区に 1,620人 、
      チェチェン共和国に 680人、ロシアの他の地域に 100人以上の話者がいる。
 
         ※ カルムイク共和国: 中央アジアのオイラト族トルグート部(旧ケレイト)に
                 ルーツを持つ カルムイク人により チベット仏教が信奉されており、
                 ヨーロッパ唯一の仏教国。
                  カルムィク-ハリムグ=タンガチ共和国
 
    ダルギン人は、古代Aghuània王国( ロ-マ人にとってのコーカサスのアルバニア )に
   属していた民族の一つで、ダゲスタンの村のなかでも、歴史的に 最も ロシア
   の抑圧に対抗してきた。
 
    チェチェン紛争 が始まって チェチェンーダゲスタン国境が不安定になったため、
   ダルギン人に 自衛のための武装集団の創設を認めて以来、ダゲスタンの主な
   民族は 各々の武装組織を持つようになった。
    また、既存のイスラム教組織の体制翼賛的傾向や腐敗が原因で、ワッハービズム
   が南部(山岳地帯)の諸民族に浸透し、北コーカサスでの ワッハービズムの「巣」に
   なっている。




 
                         地名の場所は、 エルブルス山(5,642m)  ☜ 地図
                         からご覧ください。
   ・・・ 空港から首都のマハチカラに行く脇道に カスピースク市がある。50人以上の犠牲者を
  出した昨年5月9日の爆弾テロ現場 (戦勝記念日の パレードの予定行路に爆弾が仕掛けられ
  ていたが、爆発のタイミングが外れて 将校ではなく 楽隊員を大量殺害してしまった事件 )を
  見学する。道路の修復は まだ終わっていないが、慰霊碑は すでに立っている。その現場から
  さらに数百m行くと、1996年の爆弾テロで 国境警備隊の集合住宅が まるごと崩れ落ちた
  跡地に着く。 国境警備機構が集中する カスピースクは、テロに苦しめられてきた町である。
 
   翌日から早速、ダゲスタンのイスラム指導者や、政府で宗教問題を担当している役人と面談する。
  ダゲスタンは、イスラムへの帰依が著しい点では世界でも有数の地域である。現地の宗教指導者
  の1人である イリヤス・ハッジ  (ハッジとは 「メッカ巡礼を済ませた者」 という意味の敬称だが、
  一時は毎年1万5千人近い巡礼者を出していた ダゲスタンでは、余りに 「ハッジ」 が多いため、
  この敬称は、事実上、指導的なムスリムにしか使われないようである) が豪語するところでは、
  「 ダゲスタンは アラブ諸国よりも 篤くイスラムを信じている 」。その理由として イリヤス・ハッジ
  が挙げるのは、情熱的な 北 コーカサス人の性格、スーフィズムが信仰を深める媒体となっている
  こと、(シーア派が多い南部の アゼルバイジャン人、ハナフィー学派を信奉する ノガイ人を除けば)
  ダゲスタンの諸民族は、スンナ派四大法学派の中でも最も厳格な シャフィー学派に属している
  という諸事'情である。
   実際、キリスト教やユダヤ教との共存のため 政教分離を強いられる南部を除けば、ダゲスタン中が
  イスラム復興で煮えたぎっている。 私は マハチカラのジュマ・メチェーチ (金曜礼拝が行われる
  当該市町村の最大モスク) から半km<らいの所に住んでいたが、毎朝4時には 朝のナマーズ
  (礼拝) を指揮する祈りのマイク放送の大音響で起こされる。 私にとっては エキゾチックで楽しい
  体験だが、現地のロシア人は これでは 確かに逃げ出すだろう。
   宗教色が強いインテリだけではなく、民族政策省の幹部職員もアラビア語が読め、東洋学の
  素養がある場合が多い。そうでなければ、いわゆる ワッハーブ派との論争に耐えられないので
  ある。至る所に アラビア語の看板や道路標識が見られ、村レベルのイマームでも カイロやダマスカス
  の大学に数年留学したなどというのはザラである。
 
   社会主義期は、さすがに 村レベルのイマームに そこまで賛沢はさせられなかったので、アラブ
  諸国、中央アジア、モスクワなどでの数ヶ月間の講習で イマームの資質を維持していたが、
  長期留学を経た若いイマームたちのイスラムやアラビア語に関する知識の深さ.視野の広さは
  これとは比べ物にならないそうだ。
   ただし、一部地域では イマームの労働市場が飽和状態にあり、アラブ諸国で優れた教育を
  受けたことが就職の保障とはならず、若い世代の宗教家にとっては不満の種となっている。
  ただし、年配の宗教家から見れば、ハイカラなイスラムの知識はあっても ダゲスタンの伝統イスラム
  を知らないのでは困るし、また、長期留学帰りは 潜在的に ワッハーブ派の影響を受けているので
  はないかと疑うことにもなる。 今日では、どの若者を 海外留学させるかについて、ムスリム宗務局
  は管理を強化しようとしている。
 
   いずれにせよ、熱狂的なムスリムが多いのは驚くほどで、宗教活動家にインタビューすると、
  先方の立場・派閥を問わず、たいがい、先方のこちらに対するオルグとなってしまう。
    「 イスラムを真剣に学びなさい。そして やがて受け容れなさい 」。 「 43歳にもなって、まだ
   イスラムを受け容れていないのか。それは人生の無駄遣い 」。「 さあ、いま ここで イスラムを
   受け容れなさい。さあ、いま ここで切ってあげるから。痛くも怖くもないよ 」。「 さあ、イスラムを
   受け容れなさい。すぐに 2番目の奥さんを見つけてあげるから 」。
  私に住宅と足を提供してくれる同僚のラスールまで、「 おれは お前にアジる気はないよ 」など
  と言いながら、遠まわしに それっぽいことを言ってくる。 イスラム大学に調査に行けば.若い幹部
  たちから、日本で イスラムに関心がある若者を何人か送ってくれ と頼まれる。 断っておくが、
  これらは冗談ではない。
    概して ムスリムは キリスト教徒よりも人間的で魅力的だが、私がダゲスタンで知り合った
  ムスリムたちも すばらしい人たちであった。そのような人たちに オルグされながら、いなさな
  ければならないのは辛かった。
 
   10日近く ダゲスタンに滞在したが、世俗化が進んだ南部のデルベント市を除けば、街でミニスカート
  やズボンをはいている若い女性を見ることはほとんどなかったし ( マハチカラでさえそうである。
  もちろん、怪しげな若い女性が あちこちに現れる夜は別 )、郡部に行けば ほぼ100%の女性
  が伝統衣装を着ている。  私が訪問した シャミール (コーカサス戦争の反乱指導者) の生村
  である ギムルィ村では、3年ほど前まで、酔っ払いを見つけると モスクに連れてきて笞刑を科し
  ていたそうである。「 3年ほど前まで 」というのは、 おそらく、当時の 反 ワッハーブ派・キャンペーン
  の中で、過激行動とみなされかねない行動は、少しは慎もうということになったためであろう。
  それでも、酒類販売をするような売店は、それが公式の警告を聞き入れない場合には、何者か
  によって放火されてしまうそうである。 このような事件が 2件起った結果、村での酒類販売は
  おろか、ソヴェト時代に病的なアルコール依存症になってしまった人たちを除けば、飲酒習慣
  そのものを根絶することができた。 マハチカラにおいてさえ、若い世代は ほとんど呑まなくなって
  しまった。 バーと看板が掲げられている店に入っても、バルチカ7番しか置いてないのには
  本当に腹が立つ。
   近代的な政教分離の考え方からは 問題があるが、イスラムが 私事ではなく、司法機能や
  社会秩序維持機能を果たしていることは 必ずしも悪くない。 極端な例を挙げれば、ダゲスタン
  には、いまだに慣習法(アーダ)としての「血の復讐」が機能している村もあるのであり、殺人事件
  が起った場合に 遺族を宥めて「血の復讐」に走らないように説得するのは イマームや学者
  (アーリム)の重要な役割なのである。
 
   社会主義政権末期に、官製の北コーカサス・ムスリム宗務局からダゲスタン・ムスリム宗務局が
  分離独立した。 最初の宗務局長(ムフティー)は クムィク人だったが、数限りない権謀術数を
  経て、1990年代中盤までには ダゲスタン・ムスリム宗務局は アヴァール人の支配下に入った。
   私の面倒を見てくれた ラスールが クムィク人であるため、やや誇張があるかもしれないが、
  クムィク人や アゼルバイジャン人のようなチュルク系低地民族にとっては、社会主義革命以後
  のダゲスタン史は、次第に アヴァール、ダルギンレズギンのような コーカサス語系の山岳民族
  の, 低地移住と政治権力の独占によって、かつての社会的な ステータスを失ってきた屈辱の歴史
  であった。
   1940年代から60年代にかけて共和国党第一書記だったアブドウラフマン・ダニヤーロフ
  (アヴァール人)は、山岳諸民族に向かって 「 天国に昇りたいなら、低地に下れ」と公言したそう
  である。 今日でも、クムイク人やアゼルバイジャン人は、山岳系の諸民族を 文化的に劣る、
  エチケットを知らない連中として見下す傾向にある (例によって、差別的なアネクドートが山ほどある)。
  クムィク人にとっては、世俗権力を マゴメドーアリ・マゴメードフ国家会議議長を頭目とするダルギン人
  に握られ、宗教権力を アヴァール人に握られている社会主義体制崩壊後のダゲスタンの状況
  は耐え難いものだろう。・・・
 
   今日、アヴァール人以外の宗教指導者の多くは 宗務局の正統性を認めておらず、学者(アーリム)
  会議も宗務局系と非宗務局系とに分裂している。 宗務局は、息のかかった郡には、郡イマーム
  なるものを任命している。 この郡イマームは、村イマームを任命する (宗務局に敵対している
  クムィク諸郡と南部諸郡では、これは実現不可能)。・・・
 
   1990年代においては、このような民族主義とセクト主義とによって混沌とした伝統イスラムが、
  共産主義崩壊前後から隆盛してきた、サラフィー派 (所謂ワッハーブ派) の攻撃にさらされた
  のである。 預言者の時代のイスラムに回帰し、神と信徒との間の媒介者を否定するサラフィー主義
  は、スーフィズムの影響が強いダゲスタンの伝統イスラムの神学上の対極に位置するものである。
   カラマヒ事件後、ワッハーブ派は ダゲスタンでは非合法化されてしまったが、当時 公開神学論争を
  執拗に挑むサラフィー派から 伝統イスラムの側は逃げ回っていたそうである。当時から厳しい対立
    関係にあった宗務局派と反宗務局派も、「反ワッハーブ主義」という点では共通していた。
  といっても統一戦線を組んだわけではなく、サラフィー派に対する仮借なさを競い合い、それを
  もって、伝統イスラム内での自分たちの優越性の証明としようとしたという感じである。・・・
 
 
                         (未完成)

民族の住み分け~カフカス(コーカサス) 1-2-3

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1-2-2 のつづき
 
1-2 北コーカサス(北カフカス)
 
 1.ダゲスタン共和国(続2)
  主要民族
   C.テュルク系民族。 
      テュルク諸語の北西語群(キプチャク語群 
      ~ 同言語グループには ウズベキスタンカラカルパク語カザフスタンカザフ語
        キルギスキルギス語が属している。
      
   ファイル:Caucasus-ethnic ja.svg
 
             
        
    ↑図は クリックすると、拡大され 鮮明になります。
 
     ダゲスタン共和国は、チェチェンとカスピ海に囲まれた グルジアより 一回り小さい位
   の地域だが、カスピ海沿岸にある首都マハチカラ( 丁度 共和国の真ん中辺にある)を
   境に 山岳地帯と低地地帯に分かれる。 
    北部 1/3が カスピ海沿岸の低地、テレク=クマ低地。南部 2/3 が大カフカス山脈
   南部の山地で  「内ダゲスタン」 と呼ばれる。 南端、アゼルバイジャン国境近くの
   ラグダン山付近が、ロシア連邦領最南部。領域内の最高点は、大カフカス山脈の
   バサルリュジュ山(4466m)。
 
    主要河川は チェチェン共和国を流れてきた テレク川、スラーク川、サムール川などが
   分かれて 沖積平地を作りながら カスピ海に注いでいる。他に、大カフカス山脈
   から流出する大小の河川が多数ある。

    低地地方の住民 (ノガイ人、クムイク人など) と山岳地方の住民との対立がある。
 
 
 
 クムク語を話す。
          話者は、ダゲスタンの北部平野部の都市(ハマチカラなど)を主に、チェチェン や
  北オセチアに 約42万2000人(2002)。 
        ※ 英語Wikipediaでは 50万人、ダゲスタン人口の14.2% としている。
         彼らは、8世紀 その繁栄期に この地に定住したハザール の末裔ではないか
         と考える歴史家もあるという。
           ファイル:Chasaren.jpg
         ハザール・カガン国の版図 (650年頃が赤、750年頃が橙、850年頃が薄い橙)
 
         しかし、英文wikiでは、
          The Russians built forts in their territory in 1559 and under Peter I.
           (ロシア人は、1559年 ピーター1世治下で 彼らの領土に砦を築いた )
        というのは、オカシイ。ピーター 1世が この世にあったのは 1672 - 1725 だからである。
        おそらく、イヴァン4世1530-84)の間違いではなかろうか? 
 
          東部方面において カザン・ハン国征服は治世初期からの懸案で、正教会からも
         イスラームに対する聖戦として支持された。当初 傀儡を立てた間接統治を目指す
         が失敗、1552年10月 カザンを攻めて陥落させた。しかし 残存勢力の反乱は長引き
         、1557年まで アレクサンドル・ゴルバーチイ=シュイスキーによる鎮圧は続いている。
         1556年には、カスピ海の西北岸に位置するアストラハン・ハン国を併合。
 
        とある。
 
 
      ロシア語に取って代わられるまでは、クムク語やアラビア語が この地方の
     商業言語であった。
 
      クムク人の歌とダンス
         Kumuk Dansı www.uyanturk.org - YouTube
       Юлдуз Валиева - Друзья
           http://www.youtube.com/watch?v=nPsYIRcjRr0
       Альбина Казакмурзаева. Концерт 2013.
          http://www.youtube.com/watch?v=poPy89yW5gc
          http://www.youtube.com/watch?v=_yk9mKC5HtY
      
 
 
    ・ノガイ人
       ノガイ語を話す。 
      話者は、ダゲスタンはじめ、スタヴロポリカラチャイ・チェルケス共和国 9万人。
        
      
          ノガイ人の日常風景
            NOGAYLAR TURKIYE ногай татар Тюрк
         
          Dombra // Nogay Türkleri
          NOGAYLAR -Nogay Türkleri-Arslanbek Sultanbekov
                      NOGAY TÜRKLERİ
 
 
 
                          (未完成)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

福島第1敷地境界線量、基準の8倍 汚染水タンク増設が影響

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   ALPSを切り札にしているのは、
  東電ではなく 原子力ムラ(銀行・政府官僚・独立行政法人・学者)、そして
   「放射能は 敷地境界内に 完全に コントロールされている」と豪語した
    安倍晋三首相であろう。
 
  福島県関係者が 苛立つのは 勝手だが、
  この原子力ムラを 事故後も支えている帳本が、
  実は 福島県および楢葉町など自身であることに、
  日本国民の良識は 悲しみ 苛立っているのである。
 
                                            合掌                          
 
                                河北新報  2014年01月31日
 福島第1原発事故の汚染水問題で、汚染水の貯蔵タンクを原発敷地境界近くに
増設したため、付近の年間被ばく線量が基準の 1ミリシーベルト未満を大きく上回る
最大約8ミリシーベルトに達している。 原子力規制委員会は線量の低減策と基準を
達成する時期を明示するよう東京電力に指示。
東電は 規制委が31日に開く 第1原発の監視・評価検討会で報告する。

 汚染水は増え続けており、境界の線量が さらに上昇する恐れがある。作業員の
被曝懸念されるが、汚染水を減らす以外に抜本的な解決望めないのが現状
 貯蔵タンクの増設先となった敷地南側の境界は 2013年3月末年0.94ミリシーベルト
だった線量が同年5月7.8ミリシーベルト、同年12月には 8.04ミリシーベルトまで上昇した。
汚染水中の ストロンチウム
などの放射性物質から出た ベータ線が タンクの鉄に当たると、
透過性の高いエックス線が生じる 「制動エックス線」が原因という。
 規制委は 12年秋、敷地境界の線量を 13年3月までに年 1ミリシーベルト未満にする
よう東電に指示した。 13年3月時点では達成したが、4月に 地下貯水槽からの
汚染水漏れが判明。東電は 地上の貯蔵タンクに汚染水を移し、その後、線量の
上昇が続いている。
 
 東電は ほとんどの放射性物質を取り除く多核種除去設備(ALPS)を汚染水対策
の切り札にしているが、トラブル続きで本格稼働に至っていない。ベータ線を出す
トリチウムは ALPSでも除去できず、トリチウム対策も課題となっている。
 
 収束のめどが立たない汚染水問題に、福島県関係者のいら立ちは募る。
 今月10日にあった検討会で 渡辺明福島大大学院教授は「 本当に(低減)できる
のか。実効性のない空手形では逆に不安をあおる 」と指摘。
福島県の担当職員は「 線量は住民帰還に関わる。早く下げてほしい 」と訴えた。
 
 
 
 
                                     2014年01月30日
   福島県楢葉町議会は29日、福島第1原発事故の除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設建設
  の是非を問う住民投票条例案を 賛成4、反対6の反対多数で否決した。昨年9月にも議員提案
  の同様の条例案を否決している。
   条例案は 住民団体 「住民投票を実現させる会」 が 地方自治法に基づいて制定を請求した。   松本幸英町長が条例案を説明し、「 貯蔵施設は双葉郡や県全体の問題で、楢葉町だけで
   議論すべきでなく、住民投票は適当でない 」と反対意見を述べた。
   採決前の討論で、賛成議員は「町の存続を懸けた重要な問題は主権者である町民の意見
  従うべきだ」と主張した。反対議員は「 町と議会は既に建設反対の意思表示をしており
  住民投票は必要ない」と述べた。
   実現させる会の松本慶一共同代表は 「理解されず、残念な結果だ」 と話した。
  条例案は 実現させる会が 昨年12月に町選管に出した。有効署名は2151人で、条例制定
  の直接請求に必要な有権者の1/50(126人)を大きく上回り、1月10日に町長に直接請求
  した。
   貯蔵施設は放射性廃棄物濃度が1kg当たり10万ベクレルを超す除染廃棄物を長期間保管
  する。国は楢葉町のほか、大熊、双葉両町に建設を要請した。
  楢葉町は 町内で排出した10万ベクレル以下の廃棄物に限って保管する「保管庫」を前提に、
  現地調査を受け入れた。
   松本町長は27日、10万ベクレル超の廃棄物の受け入れを拒否し、施設の集約化を県に
  要請した。住民投票条例については反対運動が過熱化するのは得策でないと判断し、反対の
  意を示したとみられる。                  

 
                           

民族の住み分け~カフカス(コーカサス) 1-2-4

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1-2-4 のつづき
   外務省 海外安全ホームページ  本情報は2014年01月31日現在有効です。
 
   ●チェチェン,イングーシ,ダゲスタン,北オセチア,カバルダ・バルカルの各共和国
    :「渡航の延期をお勧めします。」(既に滞在中の方は,退避手段等につきあらかじめ検討
     してください。)(継続)
   ●スタヴロポリ地方及びカラチャイ・チェルケス共和国
    :「渡航の延期をお勧めします。」(引き下げ)
   ●上記を除く地域(首都モスクワ市を含む)
    :「十分注意してください。」(継続)
   1.概況
    (1)チェチェン,イングーシ,ダゲスタン,北オセチア,カバルダ・バルカル,
      カラチャイ・チェルケスの各共和国 及びスタヴロポリ地方では,武装勢力による襲撃や
      自爆テロ事件,誘拐が発生しています。特に,チェチェン,イングーシ,ダゲスタン,
      北オセチア,カバルダ・バルカルの各共和国では,多数のテロ事件が発生しています。
       また,武装勢力や犯罪組織が警察等政府関係者や一般住民を誘拐、襲撃するケース
      などが見られます。これらの地域の情勢安定化には長期間を要すると見られますので,
      今後とも警戒が必要です。
 
 
 
 
1-2 北コーカサス(北カフカス)
 
 2.イングーシ共和国(正式名称: イングシェチア共和国
   
   「ガルガイ人の国」と 地元の人は呼び、ロシア連邦に属する共和国の中では、
  もっとも面積が小さい。 首都:マガス 
 
    ※ マガスには 紀元後に北カフカスから黒海北岸地方を支配したイラン系遊牧騎馬民族
       サルマタイを構成するアラン族の首都があった。 
         
                              4世紀半ば  アランの西遷ルート。
 
 
   人口: 46万7,294人(2002)  公用語: ロシア語、イングーシ語
   住民の大半が、イスラム教スンナ派イングーシ人
   ロシアを構成する共和国としては珍しく、ロシア人は殆どいない。
イングーシ共和国
RANK民族名人口比率%
総数2002年10月国勢調査467,294100.00
1イングーシ361,05777.27
2チェチェン95,40320.42
3ロシア5,5591.19
4トルコ9030.19
5グルジア3230.07
6ドゥンガン2090.04
7ウクライナ1890.04
8タタール1510.03
9クムイク1360.03
10アゼルバイジャン1230.03
-その他の諸民族、民族不明3,2410.69
 
     ※ イングーシ人:イングーシ共和国を中心に居住し、約15万人。
        民族名 イングーシは その居住地 アングシト村の名前に由来する他称で、
         イングーシ語による自称は ガルガイ (ГІалгІай)。
        ・ イングーシ語話者のほとんどは ロシア語との二言語併用者。
         
    チェチェン人と 民族的に同一カフカス諸語のナフ諸語で、1859年 帝政ロシア
  北カフカスを併合する際、抵抗した東部地域のグループを チェチェン人、抵抗しなかった
  西部地域のグループを イングーシ人と呼称したのが分離の始まり。
 
   ソ連邦成立(1922)後、1924年イングーシ自治州が設置され、
  1934年 チェチェン自治州と合併して、チェチェノ・イングーシ自治州となり、1936年
   1941年独ソ戦開始後、1942年 ナチス・ドイツが チェチェノ・イングーシ自治共和国
  (特にグロズヌイの油田)を目標とするブラウ作戦を発動。
   ドイツ国防軍、同年9月 現イングーシ共和国北部のマルゴベクを占領するが、侵攻
  をソ連の赤軍によって食い止められ、1943年1月には ドイツ軍は イングーシから
  撤退を強いられる。
   同年から翌1944年にかけ、ヨシフ・スターリン(グルジア人)は、対独協力を理由に
  イングーシ人や チェチェン人などを 丸ごと 中央アジア シベリアに強制移住させた。
    これにより、イングーシ人の約30%が 最初の1年で死亡したとされる。
   第二次世界大戦争終了後1946年、チェチェノ・イングーシ自治共和国は法律上も
  消滅し、その領土は 北オセチア自治共和国へ編入。これが 後の北オセチアとの紛争
  の種になる。
 
    1957年、スターリン死後の再評価に伴い イングーシ人やチェチェン人の名誉が回復
  され、チェチェノ・イングーシ自治共和国 復活。ただ、領土は 1946年以前より縮小した。
 
   ソ連末期の1990年11月、チェチェノ・イングーシ共和国は 既に主権宣言をしていた
     ロシア共和国からの独立を宣言(ソ連には残留)。ただし、イングーシ人は ロシア残留
  を希望していた。
   1991年ソ連8月クーデターにより 10月に大統領選挙が行われたが、イングーシ人は
  ボイコット。 11月、ジョハル・ドゥダエフ大統領が チェチェン・イチケリア共和国の独立国家を
  宣言し、ソビエト連邦とロシア共和国の双方から離脱を強行。
   イングーシ人は 住民投票により、イングーシ共和国の創設を選択する。
  12月、ロシア中央政権 と チェチェノ・イングーシ共和国政権の双方が、イングーシ共和国
  の分離・創設を承認する。同月 ソビエト連邦が消滅し、イングーシ共和国は改めて
  ロシア連邦の一部となった。
 
    1992年6月、ボリス・エリツィンロシア大統領令を発し、イングーシ共和国創設を布告。
  その中で、イングーシ共和国の領土が、北オセチアの一部にも及んでいたため、
  北オセチア共和国が反発。10月、北オセチア共和国との間で 武力紛争が勃発。
  北オセティア・プリゴロドヌィ地区の イングーシ人 4~6 万人が難民として流入当時の
   イングーシの人口は約16万 )し、大量の失業者が発生。
 
   1994年、第一次チェチェン紛争(-96)発生。 大量の難民の流入(約16万人)し、
  経済破綻に陥る。
    1996年1月、正式名称を イングーシスカヤ共和国から、イングーシェチア共和国に改称。
   1999年からの第二次チェチェン紛争 チェチェンからの難民がイングーシに流入。
   2002年 ムラト・ジャジコフ大統領(~2008 治安悪化で、任期満了前に解任
     政権による暴力と汚職の蔓延、テロの続発とチェチェン独立派の分裂(ザカエーフとウマーロフ)
      下院選挙(07年12月)・共和国選挙(08年3月)における混乱
         【下院選】①以前の世論調査と矛盾する驚異的投票率(98.4%)
                 得票率(統一ロシア98.72%)
               ②「投票していない」と主張する9万人声明
 
    一方で、チェチェンでの ロシア軍による取締りを逃れて、イスラーム過激派がイングーシ
   に拠点を移しているとされるなど、イングーシ共和国では北カフカス地域の情勢不安
   に伴う緊張状態が続いている。
                    イングーシ(黄色)   Google  地図
         北オセチア(薄緑色) ファイル:Ingush03.png チェチェン(紫色)
                        グルジア(赤色)
 
      2008年10月 ユヌス=ベク・エフクロフ 大統領
      2009年  6月  大統領、自爆攻撃で重傷
             ・ 北コーカサス イングーシ共和国の現状 - YouTube
               ・  イングーシ共和国:ロシアの新たな火薬庫に
                                       (1)   http://www.youtube.com/watch?v=JrbitVN9Xy0
                   (2)    http://www.youtube.com/watch?v=SMSR50K8XMs
                                ・ カフカス "血塗られた発火点"
                      http://www.youtube.com/watch?v=o5z51I04y38
 
 
 
 

 
  
 
 
 
 
 
 
                          (未完成)

小林秀雄 インタビュー

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   小林秀雄 (1902~83)-Wikipedia インタビュー
       
      なぜ徒党を組むのか  http://www.youtube.com/watch?v=clkjp6WjKTg
 
 
      小林秀雄で考える「歴史」の捉え方
            1/4  http://www.youtube.com/watch?v=-ecxKPx4XHI
            2/4  http://www.youtube.com/watch?v=Z0TIEZ...
            3/4  http://www.youtube.com/watch?v=e_ldlU...
            4/4  http://www.youtube.com/watch?v=k5GBRN...
 
 
       科学する心    http://www.youtube.com/watch?v=X2ZA6x9fFtk
 
 
 
 
                                             
                              
 
                                            
                                  
 
                                                                         

民族の住み分け~カフカス(コーカサス) 1-2-5

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1-2-4 のつづき
 
1-2 北コーカサス(北カフカス)
 
 2.カフカス諸語 北東コーカサス語族(ナフ・ダゲスタン語族) ナフ語派
 
                                                                           Google  地図
   b.チェチェン共和国 (続)
 
  ロシア革命(1917)後 
   1921年 チェチェン と イングーシを含む一帯に 山岳自治ソビエト社会主義共和国設置
   1922年11月30日 チェチェン自治州が、1924年7月7日 イングーシ自治州が分離
   1934年 2自治州が合併して チェチェン・イングーシ自治州となり、
   1936年 チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義共和国に昇格した。
 
   1939年8月 独ソ不可侵条約 
  第二次世界大戦1939年9月1日~45年9月2日
 
   1941年6月22日 ナチス、バルバロッサ作戦 発動(独ソ戦
    1942年6月28日 ナチス、ブラウ作戦 発動( 南部戦線で、ヴォルガ川への到達と
   コーカサス地方の石油資源獲得が目的。 コーカサスの占拠により、当時 世界最大級
   だったバクー油田からの石油供給を断ち切り、ソ連の戦争継続能力に大打撃を与え、
   降伏に追い込むことを図った。) 
 
   B軍集団 スターリングラードヴォルゴグラード攻防戦
     ~1943年2月、史上最大の市街戦に発展) 
    A軍集団
     ドン川下流の渡河をめぐる ロストフ・ナ・ドヌ周辺でのA軍集団の戦闘は激戦が予想
    されたが、3日間の市街戦を経て 7月25日、ロストフ占領。
                                           ドン川 - Weblio地図
       その後、エヴァルト・フォン・クライスト上級大将の率いる第1装甲軍とリヒャルト・ルオッフ
    上級大将の第17軍を主軸に カフカースへと順調に進撃し、8月10日にマイコープ
    13日には クラスノダールを占領。
    8月21日、第1山岳猟兵師団の選抜兵が ヨーロッパ州最高峰のエルブルス山(標高5642m)
    に登頂し、頂上にハーケンクロイツの旗を立てた 。
     しかし、前面に立ちはだかる険しいカフカース山脈に加え、鉄道 及び カスピ海、黒海の
    航路から増援を受けたソ連軍の抵抗を受け、その後の進撃は予定通りに進まなかった。
    また、黒海沿岸の要地 ノヴォロシースクも、9月10日になって市街地占領に成功したもの
    の、トルコ国境のバトゥミへの進路どころか、港湾施設に黒海艦隊の水兵が立てこもって
    激しく抵抗し、最後まで 海上からの補給に利用できなかった。
         さらに、マイコープの油田と製油施設も ソ連軍が退却時に修理不能な状態で破壊しており、
    皮肉にも ドイツ軍は燃える油田を前にしつつ 燃料が欠乏することとなる。
           9月に入り、補給の限界 と ソ連軍の防禦線構築により、グロズヌイから70キロ前面の
    テレク川に面したモズドクで 戦線は完全に膠着した。
     これに憤ったヒトラーは、9月9日にA軍集団司令官のリスト元帥を罷免し、直接指揮に
    あたる。後任に第1装甲軍司令官だったクライスト上級大将があてられたのは、ソ連赤軍
    の攻勢で戦局が逆転しつつあった 11月22日だった。
 
     ドイツ軍が ヴォロネジ占領に手こずる間、ソ連赤軍は チモシェンコ元帥の指揮のもと、
    スターリングラードに向けて計画的に粛々と後退し、前年のような無残な包囲殲滅を回避した。
    これを追うドイツ軍は、夏の大草原で 1年前を彷彿させる快進撃を始めたが、前年と異なり
    捕虜や重機材は ほとんど得られなかった。これを ソ連赤軍の潰走と誤認し、「 もうソ連軍
    はいなくなったのか?」と気を良くした ヒトラーは、7月23日に歴史的な錯誤というべき「総統
    指令第45号」を発した。
     これは A軍集団に バクー占領を、B軍集団に スターリングラードの占領を命じ、さらに 二つの
    軍集団の間隙を牽制するため、別の一隊を プロレタルスカヤからカルムイク自治共和国
    の首都エリスタを経て ヴォルガ河口、カスピ海沿岸のアストラハンに向かうよう命じている。
     カルムイク人は モンゴル系で ヨーロッパ唯一の仏教徒であり、また レーニンもその血を
    引く。ソ連軍が この方面の防衛を放棄したため、ドイツ軍は 無人に近い草原を難なく突破
    し、仏教寺院が建つエリスタを占領した。
    この地域は 草原が どこまでも続き、まさに 地の果てに来た感があったという。補給は
    途絶え、彼らは 文字通り孤立無援となった。
     一方、ソ連は バクーから カスピ海を経て アストラハンからヴォルガという水運ルートとは
    別に、グリエフの港湾と鉄道を整備する別のカスピ海ルートを設定したため、アストラハン
    やスターリングラードを占拠されても、それが ソ連の命脈を絶つことにはならなくなる。
            ともあれ、これらの命令で第4装甲軍は 装甲師団と自動車化歩兵師団の主力が
    引き抜かれ、さらに 燃料補給も A軍集団が優先されたため、スターリングラードに向けた
    追撃は、ヴォロネシ攻略に続いて 速度が鈍ってしまう。こうした錯綜は、追撃を免れたソ連軍
    に再編のための時間を提供する結果となった。
     7月30日にロストフが陥落すると、ヒトラーは 第4装甲軍を 再びスターリングラード方面に
    向わせた。また、セヴァストポリの戦いを終えるとともに クリミア半島からケルチ海峡を
    渡って カフカースを支援攻撃する予定だった エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥の第11軍も、
    スターリングラード修防戦の支援に向かわせた。
     8月7日、第4装甲軍の先鋒は スターリングラード南西 130kmのコテリニコボに南側から
    回り込みんだ。さらに 翌8日、第6軍は ドン川のカラチ鉄橋を占領し、攻勢の戦略拠点を
    確保した。しかし、スターリングラードへの本格的攻略の開始は 補給と兵力の集結を待たねば
    ならず、総統指令の乱発は 作戦の遂行を大いに混乱させた。そのことは、ドイツ軍から
    ソ連軍を捕捉・包囲する「速度」を喪失させ、逆に ソ連軍に防衛態勢を構える「時間」を
    与えることとなった。
     後退する チモシェンコ軍のドン川東岸での殲滅というブラウ作戦の本来の作戦目的、
    さらに カフカースの油田確保 及び バクーと ロシア中央部との連絡線寸断は いずれも
    失敗に終わった。また スターリングラード市の占領は当初、意図されていなかったが、ヒトラー
         は スターリンの名を冠した この都市の占領による政治的効果 と それに伴うソ連軍の
    士気低下を期し、必要以上の執着を抱くようになり、それが大消耗戦を招くことになる。
 
 
   チェチェン・イングーシの一部、ナチス・ドイツ占領され、3万以上のチェチェン人が赤軍側
  で戦った。ソ連が支配権を回復した 1944年ヨシフ・スターリンの命により、
  チェチェン人とイングーシ人が すべて 中央アジア や シベリア強制移住させられ、
  大量の犠牲者が出た。
 
   1957年フルシチョフスターリン批判により、チェチェン・イングーシ自治ソビエト社会主義
  共和国は再建され、住民も 生存者は帰還した。ただ、北オセチア領となった領域
  の一部は復帰せず 北オセチア領のままで、この領域をめぐって、ソ連崩壊後、
  イングーシ共和国が領有を主張して オセチア・イングーシ紛争が起きる。
 
 
 
【映像】
  緊迫化するチェチェン情勢:相次ぐテロ・人権活動家暗殺
                         2009/11/05
 
   紛争の傷残るチェチェン 戦火の外科医ハッサン・バイエフ
                      2008
 
  貧困に翻弄された女たち ~チェチェン・自爆テロリストの告白~
                      2005
 
 
 
 
                         (つづく)

民族の住み分け~カフカス(コーカサス) 1-2-6

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1-2-5 のつづき
 
                                                                            Google  地図
   b.チェチェン共和国 (続2)
 
   1985年  3月  ゴルバチョフ( 1931~、スタヴロポリ出身 ) ソ連共産党書記長就任
         グロムイコ最高会議幹部会議長(国家元首)にし、新外相に
                  グルジア党第一書記だった エドゥアルド・シェワルナゼを抜擢。 
  1986年 4月 ゴルバチョフ、ペレストロイカを提唱
           チェルノブイリ原発事故
            これを契機に、情報公開(グラスノスチ)を推進
          スターリン時代の大粛清の犠牲者に対する名誉回復が進められた。
  1987年 12月 アメリカとの間で中距離核戦力全廃条約締結
  1988年 5月 ソ連軍アフガニスタンから撤退開始
       同時に 東欧に駐留していたソ連軍の一部も、本国へ引き上げ。
        ソビエト連邦を含む東側諸国の相次ぐ民主化により 東西の冷戦構造
             は事実上崩壊。
  1989年 12月2日3日 ゴルバチョフとブッシュ、正式に冷戦の終結宣言マルタ会談
  1990年 ソ連共産党による一党独裁制の放棄、複数政党制大統領制導入
 3月15日 ゴルバチョフ 初代ソ連大統領
 5月 チェチェンでは 元ソ連軍の将軍/ジョハル・ドゥダエフ 権力掌握
  1991年
 5月 チェチェン・イングーシ共和国に改名 
   ゴルバチョフの求心力が低下し、代って ロシア共和国大統領 エリツィンの影響力が
    増大する。
 10月 共和国と連邦政府との間で、共和国がチェチェン共和国とイングーシ共和国とに
  分立することに同意
     同30日  得票率85%で チェチェン共和国初代大統領 当選
 11月 一方的にソ連からの独立 と チェチェン・イチケリア共和国の建国を宣言
     ソヴィエト連邦離脱法を基に、一方的に独立宣言
 
      ⋆ 厳密には、連邦離脱法は ソ連構成共和国の離脱を念頭に置いたものであり、当時
        ロシア共和国内の共和国であった チェチェンには適用されない。
 
 11月6日 エリツィン、ソ連共産党系のロシア共産党の活動を禁止
 12月8日 エリツィン、ウクライナレオニード・クラフチュク大統領、ベラルーシスタニスラフ・シュシケビッチ 
  最高会議議長と秘密会談を行い、ロシア・ウクライナ・ベラルーシのソ連からの離脱と
  独立国家共同体(CIS)の樹立を宣言することで合意(ベロヴェーシ合意)。 
 12月25日、ソ連 大統領ゴルバチョフが辞任し ソビエト連邦が解体(ソ連崩壊
 
 
  当時のチェチェンは、ロシア正教を放棄し、キリル文字からラテン文字に変更するなど、
 脱ロシア化を推し進めていた。
 
  チェチェンの脱ロシア化に危機感を抱いた エリツィン大統領は、内務省治安維持部隊
 を派遣。首都グロズヌイ を制圧すべく攻撃を開始したが、チェチェン軍の猛反撃に合い
 撤退を余儀なくされた。
 
  1994年
 12月、ロシア最大の外貨獲得資源である石油パイプラインの経路にあたるチェチェンの
 独立に 更なる危機感を持った ロシア政府は、本格的な武力行使を開始。 
  しかし、ロシア連邦軍は その圧倒的な軍事力にもかかわらず、ソ連崩壊後混乱
 と軍事予算の削減により ソ連時代と比較して 大幅に弱体化しており、 その脆弱
 ぶりを露呈することとなった。
  グロズヌイへの空襲は、多数の民間人の死傷者を出して国際社会から非難が
 集中し、その非道さに イスラーム諸国から多数のムジャーヒディーンと呼ばれる兵が参集
 する結果となった。
  チェチェンは、アル=カーイダのメンバーとされる オマル・ハッダード司令官を中心に反撃。
 ジハードの為に外国から参戦したムジャーヒディーンと共に戦った。
 特に アフガニスタンで 訓練を施された アル=カーイダの戦闘員は 戦場での攻撃だけ
 でなく ロシア国内でのテロ攻撃も行い 数百人の死者を出している。
 
  1995年
  ロシア連邦軍が広域に渡って支配権を回復したことで、ロシア側は 一方的に休戦
  を宣言し、軍隊の撤退を始めた。
   1996年
 4月 チェチェン側の指導者ジョハル・ドゥダエフが 掃討戦の最中に戦死。
    22日  チェチェン・イチケリア共和国国家防衛会議ゼリムハン・ヤンダルビエフ大統領任命。
   5月27日 モスクワにおいて停戦協定(5年間の停戦)に署名
   9月28日 チェチェン・イチケリア共和国政府を組閣
   10月3日 ヤンダルビエフが率いるチェチェン代表団 と ヴィクトル・チェルノムイルジン率いる
    ロシア代表団間の交渉 (於モスクワ)。
  1997年、ロシア軍は完全に撤退
 1月27日 ヤンダルビエフ、チェチェン大統領選挙に敗北(第3位)
   2月12日、大統領の権限をアスラン・マスハドフに委譲。その後、マスハドフ政権との
    協力を拒否し、野党に移った。
   5月、ロシア連邦大統領・エリツィンと「平和と相互関係に関する条約」を締結
 
  1999年
 8月7日 カフカースにおける「大イスラム教国建設」を掲げるチェチェン独立派の最強硬派
  シャミル・バサエフ とアミール・ハッターブ、和平協定を破り 突如隣国のダゲスタンへ侵攻。  また、同月と翌9月 モスクワアパート連続爆破事件が発生した ( ロシア諜報機関
  による自作自演の疑惑あり)。
 9月 首相ウラジミール・プーチン、ロシア軍を チェチェンへ進撃させ、紛争は再開、1997年の
  和平協定は無効となった。
 12月 プーチン、 エリツィンの健康悪化により、大統領代行に就任し、翌2000年に
 大統領に正式に就任。
  2000年 
 2月 ロシア軍  首都グロズヌイ制圧
   大統領マスハドフ、武装反乱指揮容疑で ロシア連邦の検察当局から指名手配
  される。
  2002年 マスハドフの大統領任期は切れ、ロシア側 新たな政権を樹立
   マスハドフは、憲法上、戦時下のため 大統領任期は延長され、チェチェン独立派
  (分離派)のWebサイトでは、「チェチェン共和国大統領」の称号を名乗っていた。
 
    彼は、プーチン大統領に対して、政治対話によるチェチェン問題の解決を訴え続けていたように、
    シャミル・バサエフら チェチェン強硬派とは 一線を画す穏健派の指導者だった。
 
 9月 イングーシ共和国で チェチェンの独立派武装勢力が ロシア軍と衝突、94人死亡。
 10月10日 「グロズヌイ警察庁舎爆弾事件」 25人以上死亡
         23日 「モスクワ劇場占拠事件」 チェチェン武装勢力がモスクワの劇場を占拠
     26日、特殊部隊が突入して犯人一味を射殺、人質を解放。その際に使用
       された特殊ガスの影響により 人質が130人死亡
    2003年
   6月5日  「北オセチア・モズドク 軍用バス自爆事件」 16人死亡
   7月5日 「モスクワ・コンサート会場自爆事件」 16人死亡、50人以上負傷
   8月3日 「モズドク、軍病院自爆事件」 42人死亡
   10月  親露派のアフマド・カディロフ 大統領選で初当選
 
   2004年
 2月6日 「モスクワ地下鉄爆破事件」 240人以上死亡
 5月9日 「チェチェン大統領爆殺事件」 カディロフ大統領を含む40人以上が死亡
 8月24日 「ロシア旅客機同時墜落事件」 90人死亡。
 9月1日 北オセチア ベスラン学校占拠事件 354人以上死亡
    ロシア側は マスハドフの関与を主張するが、マスハドフは 9月23日「 事件に無関係
   である 」と声明を発表。声明の中で、テロを厳しく非難し、犯行声明を出して
   いた バサエフらを自らの責任で裁判にかけると言明。また、ベスラン事件の背景
   として、ロシア軍のチェチェン侵攻は ジェノサイドであるとし、ロシア軍に殺されたチェチェン人
   25万人の内、児童が 4万2000人に上っていることを指摘。
 
   2005年
 1月26日 アムネスティ・インターナショナル、2004年12月に マスハドフの親類8人が対立する
   親ロシア派チェチェン軍連行され、消息不明になっている報告。後 解放された。
 3月8日 ロシア連邦保安庁(FSBニコライ・パトルシェフ長官、同庁特殊部隊が マスハドフ
   を殺害したことを発表。 
    チェチェン独立派 アブドル・ハリム・サイドゥラエフ第4代チェチェン・イチケリア共和国大統領
    となり、チェチェン・イチケリア共和国軍カフカーズ戦線(指揮官アミール・アブ-ムスリム)創設。
  2006年
 6月17日、ロシア連邦保安庁 と チェチェン共和国内務省の共同作戦により、
   アブドル・ハリムは殺害された。
    同日、在ロンドン・チェチェン分離主義者代表 アフメド・ザカエフ野戦指揮官の1人・
   副大統領 ドク・ウマロフが 大統領職を継承したと表明。
    ウマロフ、チェチェン・イチケリア共和国軍ウラル戦線(指揮官:アミール・アサドゥラ)と沿ヴォルガ
   戦線(指揮官:アミール・ジュンドラ)を創設。
  2007年
    ウマロフ、北カフカースの広域を領土とする カフカース首長国 創設と自身のアミール
   (首長)への就任を一方的に宣言、チェチェンをその一地方(ウィラーヤ)である
   「Noxçiyçö-Içkeriya」に改称。
    カフカース首長国は、ロシア連邦からのチェチェンの独立に加えて、北カフカースでの
   イスラム国家の建設を目指しており、従来のチェチェン・イチケリア共和国に較べて
   イスラム原理主義的性格が強い勢力。
    なお、チェチェン・イチケリア共和国の中には、彼に従わず穏健な政治活動により
   独立を目指す イギリス亡命中のアフメド・ザカエフのような者もおり、ザカエフは
   ウマロフの共和国脱退後に チェチェン・イチケリア共和国首相に就任。
 
   2009年
   2010年

民族の住み分け~カフカス(コーカサス) 1-2-7

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1-2-6 のつづき
 
 2.カフカス諸語 北東コーカサス語族(ナフ・ダゲスタン語族) ナフ語派
                                                                            Google  地図
   b.チェチェン共和国 (続3)
 
   
   1.アフマド・カディロフ  2003年10月19日~04年5月9日 無所属在任中に暗殺
 代行. セルゲイ・アブラモフ 2004年5月9日~10月5日          無所属
首相による権限代行
   2.アル・アルハノフ     2004年10月5日~07年2月15日 無所属任期途中で辞任
 代行.ラムザン・カディロフ 
 2007年2月15日~3月2日     統一ロシア首相による権限代行
   3.ラムザン・カディロフ   2007年3月2日~(在任中)   2010年9月2日 役職名を首長に変更     
 
 
 
   チェチェン戦争の原因
                  チェチェン紛争とは何か? - チェチェン総合情報  2005.11. 
 
 くりかえしチェチェンで 戦争が起こる理由はいくつか挙げられる。
 
1.ロシアの政治状況が、チェチェン戦争を必要としている。
 
  エレーナ・ボンネル女史(反体制物理学者サハロフ博士の未亡人)は、こう証言している。
 「 第2次チェチェン戦争勃発した 主な原因を探るには、まず、現在のロシア政治情勢
 を理解しなければならない。
  第1次チェチェン戦争は、エリツィン大統領再選のために必要であった。
 今回戦争は、エリツィン大統領が 自ら選んだ後継者として公に支持する
  ウラジーミル・プーチン現首相が 世論調査で順位を上げるために必要とされて
 いる 」 米上院議会での証言戦争の結果、1999年の大晦日に エリツィン大統領
 辞任して プーチン代行に その地位を譲り、大統領経験者不逮捕特権を手にした。
 

   チェチェン戦争は、戦争を必要としている ロシアの軍部・情報機関を中心とする

 政治勢力「 シラビキ(力の人々=武闘派) 」主導している。彼ら利益は、チェチェン戦争

 に参加することによる 合法・非合法の恩典によるものだ。

 これには 戦争 及び復興予算着服、現地での違法な石油密売への関与、チェチェン

 独立派への武器の横流し、現地住民の拉致と金銭による釈放(=営利誘拐)など

 が挙げられる。

 
 2.ロシア国家の統一の維持
 
  北コーカサスには、チェチェンの他に ダゲスタン、イングーシ、北オセチア、カバルディノ・バルカリア、
 カラチャエボ・チェルケシアなどの民族共和国があり、チェチェンの独立が 他の国々の ロシア
 への離反につながると、ロシアの国土の一体性が失われることが、ロシア連邦側の
 主張の一つである。
  しかし、1991年以来独立を主張した ロシア連邦構成共和国は チェチェン タタールスタン
 だけであり、すべての地域に チェチェンのような動きが出ることは考えにくい。
 
  また、ロシアが、チェチェンを侵略によって獲得したことは 歴史上 明らかであり、
 この地域の人々が 民主的な手続きを経て 独立を選んだ場合に、ロシア連邦側は、
 これに 反対する資格を持たない。
 
 3.石油資源
 
  イランとトルコが近く、軍事上の緩衝地帯である。 資源面から見ると、チェチェンで
 原油を産する他、カスピ海のバクー油田からのパイプラインが領内を抜けている
 ため、ロシア側としては チェチェンを 自国のコントロール下に置きたい。
 
 
 
                                    2006ー02ー20
   2月23日は、ロシアの祝日「祖国防衛者の日」である(かつては「赤軍記念日」と呼ばれて
 いた)。第一次世界大戦中の1918年のこの日、ドイツ軍と戦うためソ連に赤軍が結成されたこと
 を記念して定められたもので、ロシアでは、3月8日の「国際婦人デー」との関係で「男性の日」
 として認識されている。
  しかし、同時に この日は、スターリンによって チェチェン人が カザフスタンなどに強制移住
 させられた日でもある。第二次世界大戦中の1944年の この日、50万人ともいわれるチェチェン人
 は、突如として故郷を追われることとなった。移住の過程で半数以上が命を落とし、運良く移住
 できた者も、厳しい寒さと飢えに大いに苦しんだといわれる。
 その意味から、2月23日は、チェチェン人にとっても 「忘れられない日」 なのである。

  さて、ロシア軍が チェチェンに軍事侵攻して始まった第二次チェチェン紛争から、既に6年以上
 が経つ。 この間、チェチェン独立派武装勢力によるテロが 断続的に発生しているものの、
 同勢力に対するロシア側の掃討作戦は 継続的に推進され、チェチェンには 親ロシア派のアルハノフ
 政権も誕生しており、「 チェチェンに 親ロシア派政権を樹立し、これを通じて チェチェンをロシア
 の管理下に置く 」という プーチン政権のチェチェン政策 (所謂「チェチェンのロシア化」政策)は、
 一応進展しているようにみえる。
  プーチン大統領は、今年1月31日に内外の記者1000人以上を前に3時間半にわたって行った
 大規模記者会見でも、昨年の成果の一つとして「 チェチェンを ロシアの憲法体制の中に引き
 戻したこと 」 を取り上げた。
 だが、チェチェン情勢は 本当に ロシアの枠内で安定に向かっているのだろうか。

  チェチェン独立派武装勢力が弱体化していることは、恐らく事実であろう。同勢力の指導者
 であるバサエフ野戦司令官自身、今年1月に「 聖戦は拡大しているが、我々は唯一、聖戦を
 支える資金とメディアの不足という困難にぶつかっている 」旨を述べている。
  最近のチェチェン独立派武装勢力の大規模テロが、例えば 北オセチアやカバルダ・バルカル
 など、チェチェンやモスクワといった「中心地」以外の地で発生していることも、同勢力の力量
 低下のひとつの反映かもしれない。
  しかし それでも、独立派武装勢力を取り巻く情勢に照らせば、同勢力が根絶される方向に
 あると言うには、なお無理があると思われる。独立派武装勢力は、行政の腐敗や貧困などの
 社会情勢に不満を募らせる地元住民や他国のテロリスト集団の加担を得るほか、現地の
 治安当局者の一部と癒着しているとみて間違いないのである。
 
  イワノフ国防相(当時。現在、国防相兼副首相)は昨年10月、「 ここ数年間にチェチェンで
 50か国からの外国人傭兵が殲滅された。テロリストが自分の力だけで何かをやったことはない。
 常に、国境を越えた資金やテロリストの流れが存在している 」旨を指摘した。
  また、ロシア内務省は 今年1月、「 昨年1年間に北カフカスの内務機関で武装勢力との関係
 や破壊工作への関与がみられる内務機関職員156人に関する情報を得た。16人が処罰され、
 20人が解雇された 」旨を公表した。
 
    他方、チェチェンの政権が引き続き ロシアの事実上の管理下に収まっているかどうかも、
 不透明である。2年前に独立派武装勢力に爆殺された前大統領の子という「血統」を持つ
 カディロフが 「借り物大統領」のアルハノフに代わり いずれチェチェン大統領となること、現に
 チェチェンの最高実力者が アルハノフ大統領ではなく カディロフ第一副首相であることは、
 まず疑いない。
  だが、そんなカディロフは、プーチン大統領にとって信頼に値する人物とはみられない。
 カディロフは、チェチェンにおいて 以前から 「カディロフツィ」(「カディロフ一派」の意)と呼ばれる
 強大な私兵集団を率いて営利誘拐と略奪を行い、現地で活動する ロシア軍と時に衝突さえして
 いる「危険な男」である。 現段階でこそ、カディロフは 基本的にプーチン大統領の意に沿って
 行動していると見受けられるが( もっとも、プーチン大統領も 様々な形で カディロフを「懐柔」
 している)、今後の両者の関係が 首尾よく推移するかどうかは、なお予断を許さない。
 
     ※ カディロフは、チェチェン独特の「部族の原理」に照らせば アルハノフより上位であり、
  前回(2004年8月)の チェチェン大統領選挙時に得ていなかった大統領の被選挙権(年齢30歳)
  を今年取得する。 また、昨年11月に実施されたチェチェン議会選挙は、プーチン与党の
  「統一ロシア」の圧勝で終わったが、この選挙戦を仕切ったのも カディロフである( 因みに、
  独立派武装勢力のバサエフ司令官は 同議会選挙を 「豚による出し物」と表現 )。
                                  
 
 
                         (未完成)
 

民族の住み分け~カフカス(コーカサス)  

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 ソチオリンピック(2月7日~23日)の陰で
 
                 地図の説明
                        ソチ(ロシア)の周辺地図-Yahoo!地図
 
                            産経  2014.2.3
■警官や兵士4万人・戦闘機が哨戒…
 
 【モスクワ=佐々木正明】ロシア治安当局は、7日に開幕するソチ冬季五輪の安全
を確保するため、現地に 約4万人の警察官や兵士を動員し、厳重な警戒態勢
を敷いている。
 ソチに隣接する北カフカス地域のイスラム武装勢力が 五輪の阻止を狙いテロ活動
を行っているためで、昨年末の南部ボルゴグラードの連続自爆テロも、同地域の
ダゲスタン共和国の武装勢力が犯行に及んだことが当局の調べで明らかになった。
 
 すでに、ソチ一帯では 人や車両の出入りが厳しく規制されており、ソチに登録
されていない車両は 約100キロ圏内にも入れない。
 空では 戦闘機が哨戒飛行を行い、グルジアとの国境に近い地域には 地対空
ミサイルも配備。 海からの侵入に備え、沿岸には 複数の艦艇も展開されている。
 
 露治安当局は 米英など約80カ国の治安対策機関などとテロ関連の情報交換
を行っており、連邦保安局(FSB)幹部は報道陣に 「差し迫った危険はない」 と
強調した。
 一方、1月31日付の露紙ベドモスチは、ソチ周辺の警備に当る総人数は 発表より
多い 7万人と報道。対テロ特殊部隊は モスクワでも戦闘準備態勢を取っている
という。
 
 


 
 
 北カフカス情勢 ダゲスタンからの便り

ダゲスタンの首都マハチカラから、最近の雰囲気を伝える便りが届いた。
ソチオリンピックに向けて、治安組織の警備が、以前よりさらに厳しくなった。
バスの運転手たちは、検問が厳しくて何時に目的地に着くのか、
予想がつかないとぼやいている。

北オセチアの首都ヴラジカフカスから ダゲスタンの首都マハチカラまでは、
ロストフ・バクー幹線道路で、問題無ければ 4時間ほどの距離だが、
8カ所に検問所(ブロックポスト)がある。
西から東へ 北オセチア・イングーシ・チェチェン・ダゲスタンと続く
のだが、共和国同士の境界だけでなく、各首都への出入口でも検問が
行われ、この数になるのだ。

マハチカラでは、街の中心部にも毎日、銃声が聞こえてくる。
ダゲスタンの検問は、一般的な警察である民警(ミリツィア)と重武装の
OMON(特別任務警察部隊)の共同で行われている。
ダゲスタンのOMONは、黒い目出し帽を常時着用し、大変に威圧的だ。
それと較べると、「カディロフツイ」で知られるチェチェンのOMONが、
目出し帽を着用しないので、まだ穏和に見えるほどだ。

ダゲスタンは、ロシア領内でも指折りのワインやブランデーの名産地だが、
イスラーム武装勢力の度重なる酒屋襲撃におびえて、
酒類取扱いをやめる店が増えている。
住民の間では、以前からオリンピックが終わったら、世間の関心もが薄れる
ので、その後 戦争が始まるのではないかと、専らの噂だったが、
ソチオリンピックが目前に迫って、不安が募っている。
KavkazPortal 2014/01/16
 


 
 
チェチェンニュース#414 (転送・転載・引用歓迎)
  大富亮氏主宰のチェチェンニュース414号が、米国、ジェームスタウン財団の配信記事を
翻訳紹介している。ちなみに、ジェームスタウン財団には、「コーカサスに平和をアメリカ委員会
(ACPC)」の事務局がある。
  掲載記事の筆者、マイルベーク・ヴァチャガーエフは、マスハードフ時代の大統領広報官、
駐ロシアのチェチェン共和国総代表を経て、フランスに亡命し、パリの高等社会科学研究所で
博士論文を執筆した後、米国に移住し、ワシントンのジェームスタウン財団に、カフカス・ロシア
問題研究者として勤務している。(K.P. 2014.01.15.)


簡単に、ソチオリンピックの近づく北コーカサス情勢をお伝えします。

■ダゲスタンで低烈度の武装抵抗活動が続いている

 アメリカの保守派シンクタンク、ジェームズタウン財団のニュースより。
 筆者はマイルベーク・ヴァチャガーエフ。

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 2013年は、ピャチゴルスクとボルゴグラードでの3回の爆弾テロ事件で
終わった。これらの事件は、もちろん北コーカサスの緊張をさらに深めることになった。

 北コーカサスは年末年始のお祝いムードとは程遠い。地域は明らかに
原理主義化していて、新年のお祝いさえもイスラムの伝統に反すると
言われるようになってきている。

 12月24日、ロシア対テロ委員会は、2013年に北コーカサスでは260人の
抵抗勢力を殲滅したと発表した。そのうち42人が野戦司令官であるという。
また、12件のテロ攻撃を含む78 件の犯罪を未然に阻止したという。
ただ、この発表内容は、何をもってテロ攻撃と定義するかがあいまいで
疑問が残る。
ちなみにチェチェン内務省は、2013年にはチェチェン内でのテロ攻撃は
「何もなかった」と発表している。当局発表はあてにならない。

 チェチェンの東隣のダゲスタン共和国の情勢は、明らかに緊張している。
12月 25 日に、デルベント地区の警察署で、捜査官が何者かによって銃殺
された。ハサブユルト地区でも戦闘があり、ムツァルーアウル村の酒屋で
11歳の少女が死亡した。ダゲスタンではアルコールを販売している場所が
繰り返し襲撃を受けている。

 12月26日にも、スレイマンースタルスキー地区で特殊作戦があり、
抵抗勢力の一員と疑われたマドリド・ババハノフ(27 歳)が自宅で殺害された。

 (原文にはこのような事件がさらに列挙されており、まるで戦争状態:編注)

 このような状況の悪化によって、
ダゲスタンの首長であるラマザン・アブドラチーポフは、同共和国の
安全保障会議として治安維持についての特別会議を開くに至った。
ところが その翌日12月31日にも、ブイナフスクの検察官ガサーノフが、
自宅前で自動車爆弾により殺害された。また、ハサブユルトでも即席爆弾
(IED)による攻撃があり、警察官が負傷した。

 冬季オリンピックが始まるソチでは厳戒態勢が取られているが、
オリンピックが近づくにつれ、北コーカサスの緊張はさらに高まるだろう。

 


 
 
ソチオリンピックに関連し、
アムネスティ・インターナショナルがロシアの人権状況について声明を出した。
                                         2013年10月 9日 [アムネスティ国際事務局発表ニュース]
 
  2014年のソチ冬季オリンピックに先立ち、アムネスティ・インターナショナルは
ロシアで悪化する一方の人権状況を浮き彫りにする世界的キャンペーンに取り組み始めた。
 
 モスクワにオリンピック聖火が到着した。 この聖火は、ロシア当局が華やかなイベントの陰に
隠したくて仕方ない人権侵害の実態を照らしだすだろう。オリンピックに関わる人びとすべてが、
ロシア当局が社会や市民に課している規制を思い、声をあげてその規制に反対することが大切
だろう。
 
 オリンピックの聖火が 10月7日にモスクワに到着し、ソチに向けて出発した。 その時、何十万人
ものアムネスティのメンバーが世界中で イベントを催し、抗議行動を繰り広げた。
ロシアで 表現・結社・集会の自由の権利がどれほど侵害されているかを広く知ってもらうため、
トロント、プエルトリコ、ワルシャワ、パリ、ブリュッセルなど世界各地、そして モスクワで、趣旨に
賛同する人びとが公共の場やロシア大使館の前で抗議の集会やフラッシュモブを行ったり、
ピケをはった。
  ロシア憲法、そして 自らが批准国である国際人権条約によって 明確に保障されている
基本的人権が踏みにじられている事実は、オリンピックのファンファーレも 華やかな式典を
もってしても隠しきれないであろう。 
アムネスティは、今後のキャンペーンで次のことを訴えたい。
 
          良心の囚人であるウラジミール・アキメンコフさん、アルチョーム・サヴィオロフさん、
  ミハイル・コセンコさんの3人は、ただ 表現と結社の自由の権利を 平和的に行使しただけで
  1年以上も拘禁されている。
   2011年と2012年の国会議員選挙と大統領選挙が不正だったと抗議する大集会が各地で
  開かれていた折、この3人は 2012年5月に モスクワのボロトナヤ広場での抗議集会で
  拘束された。ボロトナヤ広場での抗議集会に関連して 13人がモスクワで裁判にかけられて
  おり、数人が 同件で いまだに裁判待ちの状態である。
       平和的抗議行動を抑圧する法律により、デモの主催者に重い罰金を科しているが、そうした
  適用の多くが恣意的である。 2013年には モスクワ市内と その周辺だけでも 81の抗議集会
  があり、600人以上が拘束された。
 
   2012年に施行された「外国の代理人法」は ロシアで活動する海外のNGOを著しく弾圧して
  いる。 モスクワのアムネスティ事務局も査察を受けた。 また、この法の下で検察が起訴した
  NGOの裁判では 数団体とその幹部が 高額な罰金を科された。 さらに多くのNGOに対し
  外国の代理人として登録するよう公式要求が発令され、要求に応じなければ処分を受ける
  ことになる。
    2013年に同性愛嫌悪に基づく法律が導入され、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・
  トランスジェンダー・インターセックス(LGBTI)の人びとの表現や集会の自由の権利を制限
  してきた。その結果、ロシア全土で 同性愛嫌悪暴力が増加している。
  LGBTIのイベントは、それに反対するデモ隊によって妨害され、当局からはデモ禁止命令を
  受け、参加者は未成年者の間での非伝統的な関係を奨励したとして逮捕された。
  この法律に違反すると、外国人も含めだれでも最高3000米ドルの罰金を受ける。
    パンクグループのプッシーライオットが 2011年、モスクワのロシア正教会で、平和的で短い、
  しかし 時の政権に挑発的なパフォーマンスをしたことが契機となり、神への冒涜法が導入
  された。メンバーの内 2人は 2年の禁錮刑という政治色濃い判決を言い渡され、現在服役中
  である。その1人 ナジェージダ・トロコンニコワさんは 刑務所の悪状況について苦情を言った
  ため独房に入れられ、ハンストをしている。
    ジャーナリストや人権活動家の殺人事件を きちんと調査しない。アンナ・ポリトコフスカヤ
  さんは 2006年に銃殺されたが、犯人は明らかになっていない。  ナタリア・エステミロワさん、
  ガジムラート・カマロフさん、アフメドナビ・アフメドナビエフさんらの殺人でも、誰も起訴されて
  いない。
 
 オリンピックの放映に世界が釘付けになっている間も、ロシア当局は国内では人権侵害を
繰り広げるはずである。
ロシア当局は オリンピック競技場でのデモを禁止しているオリンピック憲章を盾に、個人や
活動家が、合法的、平和的なデモに参加するのを妨げようとしている。しかし、憲章が禁じて
いるのは 実際の競技場所や会場のみであり、禁止が理にかなっている場合のみである。
  ロシア当局が阻止しようとしている一般的な抗議デモは 憲章の禁止規定には当てはまらず、
その行為は 表現・結社・集会の自由の原則に違反する。
 
 オリンピック大会は 人権を無視していい場ではない。大会の主催は 市だが、実質的には
広く 国の主催であり、その主催国ロシアの基本的人権の侵害は、受け入れられるものではなく、
ただちにやめるべきである。
 
  人権を大切に思うすべての人、そしてオリンピックを組織し運営にかかわる人をはじめすべて
のオリンピック関係者は、表現・結社・平和的集会の権利の侵害に対して、反対の声をあげよう!
 
                            アムネスティ国際ニュース
                                    2013年10月3日
 
   補足:「外国の代理人法」……海外から資金を受け「政治活動」に携わっているとみられる
      NGOなどの団体に、「外国の代理人」として登録する義務を課すもの。
      登録すると、一般団体より頻繁な報告義務や監査義務、定期査察受け入れが発生し、
      また、抜き打ち査察もある。登録や報告に不備があると罰金刑や服役刑が科される。
      「政治活動」に携わっているという判断基準はあいまいで、罰則の適用解釈も幅広い。
      NGOを厳しく監視するための法である。登録しなければ罰金が科せられ、一時的な
      活動停止や資産凍結に追い込まれることもある。
 
 


民族の住み分け~カフカス(コーカサス) 1-2-8

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2.カフカス諸語 北東コーカサス語族(ナフ・ダゲスタン語族) ナフ語派
                                                                            Google  地図
   b.チェチェン共和国 (続4)
 
 ここで、何人かのチェチェン人の履歴を見てみます。
 
   1942 ソ連邦 チェチェン・イングーシ自治共和国の首都グローズヌィ に生れる
        1944 スターリンによる チェチェン人の強制移住が実行され、ハズブラートフの家族も
      全員 カザフスタンに強制移住させられる
 
      14歳から働かざるを得ず、労働の合間に夜間学校で学ぶ
   1960 カザフ大学経済学部に入学
      その後 モスクワ大学法学部に移る
   1966 ソ連共産党に入党
   1967 モスクワ大学を卒業
    1970 モスクワ大学大学院を修了し、経済学博士号を取得
        コムソモール 中央委員会宣伝部に勤務
 
    その後、ソ連科学アカデミー社会科学情報研究所、高級学校問題研究所、
      プレハーノフ国民経済大学で学究生活
     この間、1987年からボリス・エリツィンと行動を共にする。
 
   1990 ロシア連邦共和国人民代議員に選出される
        6月 最高会議第一副議長に選出される
                   (エリツィン、議会や国内の少数民族の支持を得るためにハズブラートフを選ぶ
    1991  6月 エリツィン、ロシア大統領に選出される
        9月 エリツィンの後任に最高会議議長に選出される
        8月 ゲンナジー・ヤナーエフラ守旧派クーデター  
           エリツィンらと ロシア最高会議ビル(ホワイトハウス)に立てこもり、クーデター側
         と対峙する。 この年、共産党を離党
 
      12月25日  ソ連 大統領ゴルバチョフが辞任し ソビエト連邦が解体(ソ連崩壊
        ソ連崩壊後、エリツィン政権下で ハズブラートフの政治的位置は、次第に
       反エリツィンに傾斜していく。経済改革を巡り、エリツィン側近エゴール・ガイダル
       やアナトリー・チュバイス急進改革派と一線を画すようになり彼ら若手改革派
       を「 ピンクのパンツを履いた坊やたち 」と揶揄していた。
       元来、ハズブラートフは 政治家としては 政治的力量は未熟であり、性格
       敵対者に対決的に過ぎた。 しかも、彼は政治的野心を肥大化させ、
       最高会議内旧共産党保守派などと提携して、エリツィン政権の急進改革
       路線に反対する発言者の役を演じるようになっていった。
 
   1992 
     6月 自由ロシア人民党(党首、アレクサンドル・ルツコイ副大統領ロシア民主党
       (党首、ニコライ・トラフキン人民代議員「刷新」(代表、アルカジー・ウォリスキーロシア産業
        ・企業家同盟会長)の中道三派は、政治ブロック「市民同盟」を結成し 議会
      内で 一大勢力を築き、エリツィン政権の急進改革派を辞任に追い込んだ。
       ハズブラートフは、ルツコイ伴に 反 エリツィンの立場で提携し、エリツィンとロシア議会
      の対立は激化していった。
 
       ハズブラートフ と エリツィンの対立を決定的にしたのが、
      1993年9月の彼のテレビ発言だった。「 大統領は 当てにできない。
      どうしようもないドン百姓だ。 (人差し指で喉を叩きながら=酔っ払いのジェスチャー)
       これさえあれば、あいつは どんな大統領令にも署名する 」。
       このハズブラートフの発言は エリツィンの逆鱗に触れ、9月21日 訪日⋆を直前
      に控え、「大統領令1400号」を公布。超法規的に現行憲法を停止した上
      で ロシア人民代議員大会及び最高会議を解散、議会を中心とする反エリツィン
      陣営の除去に取りかかった。
       ハズブラートフは、最高会議の緊急会議を召集し、ルツコイに大統領全権を
      付与し、10月3日、最高会議ビルに立てこもって抵抗した。
      しかし、8月クーデターの再現とはならず、ゲンナジー・ブルブリスの指揮のもと
      ロシア政府軍の圧倒的な攻撃により、10月4日 抵抗は失敗(10月政変)。
      ルツコイ、ハズブラートフは逮捕され、レフォルトヴォ刑務所に収容された。
 
   1994 恩赦により釈放。 故郷チェチェンに戻る
   1995 8月紛争調停、チェチェン独立派のドゥダーエフ大統領の退陣を求める
 
 
  ジョハル・ドゥダーエフ1944- 1996 4月21日
   1944 チェチェン・イングーシ自治共和国の ペルヴォマイスコエ 村で生れる
     一家は強制移住で カザフスタンに追放される (1957年 故郷に帰還)
 
     ウラジカフカスの北オセチア大学で数学を学ぶが中退
   1962 ソビエト空軍に入隊
      M.ラスコヴァヤ名称タンボフ高等軍事航空学校を卒業
   1968 ソ連共産党に入党 (公式には脱党していない)
   1977 ガガーリン名称空軍アカデミー卒業
     チェチェン人としては 初の師団長、空軍少将まで昇進した。
 
     アフガニスタン戦争に参加
   1987 エストニア駐留(~91)
       エストニア語を学び、エストニア人のナショナリズムに寛大で、エストニアのテレビ局
      と議会の封鎖命令を拒否したことから、エストニア人からは「反乱将軍」
      と評された。
 
   1990 少将に昇格
      (最後の任地はタルトゥの戦略爆撃機基地、つまり核装備部隊の指揮官だった
      5月 タルトウに来たチェチェン人の要請を受けて退役、野党チェチェン人民
      全民族会議執行委員会を率いる。
     
        11月 チェチェン・イングーシ自治共和国、ソ連邦からの独立を宣言
   1991 5月 チェチェン・イングーシ共和国に改名
        ソ連8月クーデター
             一早く ボリス・エリツィンを支持し、自由広場は 彼の支持者で満たされ、
       国家親衛隊組織され、共和国最高会議解散、ドゥダエフ 権力を掌握
      10月 共和国と連邦政府との間で チェチェン共和国イングーシ共和国に分立
         することに同意
        30日 得票率85%で チェチェン共和国初代大統領に当選
      11月 一方的にソ連からの独立とチェチェン・イチケリア共和国の建国を宣言
 
   1994 12月 エリツィン、チェチェンの独立を防ぐため 連邦軍をチェチェン共和国に投入、
         第一次チェチェン紛争 勃発
   1995 2月 ロシア軍、チェチェンの首都グロズヌイを制圧
   1996 4月21日 ドゥダエフ、衛星電話通信中 ロシア軍のロケット弾攻撃で死亡
       8月 エリツィンとチェチェン武装勢力のリーダーの間で停戦合意 
   
 
      ドゥダーエフに対するチェチェン人の支持は いまだに強いように見える。
      妻アッラは ロシア人。第一次チェチェン戦争後に ロシアから追放され、現在はアゼルバイジャン
      共和国のバクーで発言を続けている。彼女は チェチェン人からも信望の厚い、チェチェン
      を最もよく知るロシア人と言える。
     ルドニック・ドゥダーエフ(1949-2005)
        チェチェン人。ウズベキスタン共和国、 Brich-Mulla に生まれる。法律を学んだのち、
       30年以上をソビエト/ロシアの治安機関で過ごす。
       2000年12月、チェチェンの親ロシア政権の一員となる。グロズヌイの政府庁舎爆破事件
       の際に負傷し、一時昏睡状態になったが回復。
       2001年2月、親ロシア政権の安全保障会議議長。
       2005年12月11日、グロズヌイの官舎の火災によって死亡。
 
 
 
                          (未完成)

民族の住み分け~カフカス(コーカサス) 1-2-9

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1-2-8 のつづき
 
                                                                            Google  地図
   b.チェチェン共和国 (続5)
 
 
 
    1965 チェチェン南部のドゥイシュニ・ヴェジェノ村に生れる(ヤルホロイ部族)
       19世紀のチェチェン抵抗運動 指導者シャミールの名から命名された
 
    1987 モスクワ土地整理技師専門学校 入学
      1年後、成績不振により除籍
            暫く、モスクワで コンピュータ売買などを営む
      (モスクワのアパートには、チェ・ゲバラのポスターが貼られていた )
    1989 イスタンブルのイスラム大学で学ぶ(~1991)。
    1991 カフカス人民同盟軍(カフカス山地民同盟)に参加
      8月のクーデター未遂事件では、エリツィン側に立って ロシア連邦最高会議ビル
        (ホワイトハウス)防衛に参加した 100人ほどのチェチェン人の中の一人だった。
      その後、チェチェンに戻って ドゥダーエフらに合流。
     11月 南ロシアのミネラルナヤ・バダー で飛行機をハイジャックし、 トルコのアンカラに
      向かい、ロシア側による情報封鎖の実態を暴露するための記者会見場の
      確保を要求するが、トルコ当局に拒否される。
    1992  カフカス人民同盟軍司令官に就任
      翌にかけ、アブハジア紛争に武装勢力 「チェチェン大隊」を率いて介入し、
      義勇軍を称して アブハジア独立を阻止する立場の グルジア政府軍と戦う。
       この戦闘に介入した裏には、ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の
      工作があったとされ、バサエフ麾下の武装勢力は、GRUによって直接訓練
      を受け、アブハジアに介入するように指示されたと言われる。
              (GRUのスタニスラフ・ルネフ大佐の言として John. B. Dunlop
                "Russia Confronts Chechnya - Root of a Separatist Conflict" 1998)
    1994 
      12月 第一次チェチェン戦争勃発後、独立派のジョハル・ドゥダエフの指揮下に
       グロズヌイ 守備隊指揮官に任命され、各地を転戦
    1995
       6月 ブジョンノフスク病院占拠事件の首謀者として、これまで 和平交渉を
       拒否していた ロシア政府を 交渉のテーブルに引きずり出し、「民族の英雄」
       視されるようになる。
        しかし、ロシア側の報復も激しく、バサエフの生地 ヴェデノは ロシア空軍の
       空爆に逢い、彼の家族11人も犠牲となった。
    1996 末、第一次チェチェン戦争がハサヴユルト合意により 一応の終結を見る
    1997
       1月 チェチェン大統領選挙に立候補、穏健独立派のアスラン・マスハドフに敗北
        マスハドフ政権では、閣僚や国軍副司令官を歴任するが、
       次第に マスハドフとの間に路線対立を起こすようになる。
       この間に、ロシアの政商 ボリス・ベレゾフスキーから資金援助を受ける。
    1999 アラブ人の野戦部隊司令官アミール・ハッターブと共同して、隣国ダゲスタン
      に侵入  ――→ 第二次チェチェン戦争
  
    2002 夏 これまでの経緯を不問としたマスハドフ大統領との共闘を宣言
      10月23日 モスクワ劇場占拠事件後、事件の責任を取るとして 再び陣営
          を離れる。
       12月27日  グロズヌイで発生した 親ロシア政権の政府庁舎爆破事件を
          自ら組織した声明、事件への不関与声明した マスハドフ政権中央
          との路線の違いを明らかにした。
          (マスハドフとの不一致は この後 同様のパターンが繰り返される)
 
     2004 
      8月24日 モスクワバス停爆破事件、 同日 二機の旅客機自爆撃墜
        31日 モスクワ・リガ駅自爆事件
     ――― これらロシア国内での主要な テロ事件に関して、自らの ウェブサイトで
         犯行声明を出す
    2005
      3月9日 マスハドフ、ロシア連邦保安庁(FSB)特殊部隊により殺害される
        これを受けて、翌10日「聖戦継続」を呼び掛ける声明を発表
        「 マスハドフのために戦った者は休むがよい。アラーのために戦う者の
        聖戦は続く 」
        マスハドフの後継者には、チェチェン独立派アブドル・ハリム 宗教裁判所長官
       が暫定的に就任するべきだと主張。
        ――→ アブドル・ハリム 大統領に選出される
    2006
      6月17日 ロシア連邦保安庁 と チェチェン共和国内務省の共同作戦により、
        アブドル・ハリム 殺害される
              同日、在ロンドン・チェチェン分離主義者代表アフメド・ザカエフ
       野戦指揮官の1人・副大統領 ドク・ウマロフが大統領職を継承したと表明。
       27日 大統領により、副大統領に任命される
      7月10日 イングーシ共和国で ロシア軍部隊の作戦により殺害される(41歳)。
           (自動車での移動中に爆死した。ロシア当局は「特殊作戦によるもの」として、
          テロリストの殲滅を強調したが、根拠に乏しく、遺体も公表されていない。
          逆に、自動車に積み込んでいた爆薬の誤爆説、独立派内の内紛説などが
          一般的になりつつある。 )
 
               シャミーリ・バサーエフ野戦司令官インタビュー
           2002年4月後半以来、野戦司令官ハッターブの謀殺に続いて、野戦司令官
          シャミーリ・バサーエフの戦死報道が、ロシアの国営通信社のWebサイト Strana.ru
          を中心に執拗になされてきた。彼の死亡の証拠写真として、手術台に横たわる
          バサーエフの写真が掲載される一方、「彼の死体が出てこないのは、砲撃によって
          バラバラになってしまったからだ」と、矛盾した記事がお粗末にも流されていた。
           チェチェン独立派は、国営通信社チェチェンプレス chechenpress.com が、
          5月5日に チェチェン軍最高司令官である マスハドフ大統領が召集した司令官会議に
          バサーエフが出席し発言した内容を報じ(チェチェンニュース 2002.5.13参照)、
          また、イスラム系の独立派サイト、kavkaz.org が、バサーエフが3人目の妻を娶り、
          その結婚の祝いに20人ほどの友人が集まったといったニュースを流し、死亡を
          否定してきた。
           今回のインタビュー記事は、プリマ通信社が配信すると 直ちにチェチェンプレス
          が転載し、続いて カフカスセンター kavkaz.org や、国際的な独立支援グループ
          のサイト ichkeria.org も後を追った。このことは、バサーエフの政治的な位置が、
          以前より マスハドフ大統領に接近していることを物語っていると思われる。
                                                             チェチェンニュース Vol.02 No.09 2002.06.02より
 
      ロシア軍参謀長クワーシンが、あなたは死んだと発表していますが、
    それについてコメントはありますか?
              ・・・ 私が言っておきたいのは 一つだけです。これは、上官に対して、自分が努力
     してるんだとポーズをとっているに過ぎないと言うことです。あなたは、ハッターブの死
     について 国防相のイワノフが発表したのを覚えていられるでしょう。あなたがたの理屈
     から言えば、あれは パトルーシェフ(ロシア連邦保安局(FSB)長官)が発表するべきものでした。
     ところが、死体により近い奴が 全てを決めるという訳です。クワーシンは イワノフの功績
     にしたくないと言う嫉妬心から、あんな発表をしてしまったのです。
      大局的に見れば、何も変わらないのです。今日、私が死のうが、他の者が死のうが、
     イスラムの聖戦は、止まるものではありません。例えば ハッターブが死んでもそうなのです。
     正面切っての戦闘では、ハッターブを倒せないので、卑劣な方法を思いついて、毒入りの
     手紙を使って彼を毒殺しました。アッラーの思し召しで、我々は下手人たちを特定し、既に
     下手人の1名を銃殺に処し、もう一名を追っています。こいつも必ず捕らえて処刑します。
      問題は 私の生命とか、他の わが イスラム戦士(ムジャヘディン)の生命にあるのではありま
     せん。今日 問題なのは、人々が この現実世界と、彼らの人生観や、自分の自由という
     ものに対して、どう自分を関係付けられるのか? ということなのではないでしょうか。
     我々は今や、誰にも妨げられることなく、我々が生きたい様に生きる権利、自分たちの
     自由を確立する道を歩んでいます。アッラーのお陰により、遅かれ早かれ、自由は我々
     のものになるのです。
      ですから、クワーシンの発表は、我々の間では、単なる失笑を買うに過ぎませんでした。
     と言うのは、こんな愚かで、どうしようもない連中を指導部に担いでいる ロシア軍は、それで
     途方もない戦費と人的資源を無駄にしているのかと思うと、私には ロシアという国が哀れ
     でならないからです。
 
      一番重要な事は、現在の戦いが地雷・爆破戦となっていて、それが幾千もの戦傷不具者
     を生み出し、一生 その責め苦を背負わねばならない幾千の戦傷者を チェチェンから送り出し
     続けていると言うことです。実際、ロシアは このことに気づいていない。彼らは、自分たち
     の犠牲者と死体の数を数えていないのですから。ロシアの政権には、真実 人民を代表し、
     人民の幸せを考えようという者がいた試しがないのです。
     ロシアは 土地や資源を奪われまいとして闘うということを余り経験していません。ほとんどが
     他人のものを奪おうという闘いをしてきたのです。アッラーがコーランで語っているように、
     「わが道を遮るならば、お前らの最も嫌う手口で懲らしめよう」ということになって、我々は
     ロシア侵略者には天誅を加えざるをえないのです。・・・
 
      
      世論というものは、暴君の政治にでさえ影響を与えることができます。ただし、現在の
     西側の、特に アメリカの指導部は、テロリズムという言葉で、全世界を脅かしているという
     状況が生まれています。彼らは、国際テロリズムという、非常に都合の良い用語を発明
     しました。このレッテルは、実質的に如何なる個人にも、国家にも貼り付けることが可能
     ですし、それには 大した証拠も証明も必要としません。
      今日 全世界は、催眠術にでもかけられたように、底なしの破滅に引きずり込まれよう
     としています。例を 先頃のカスピースクの 5月9日の爆発騒ぎに見てみましょう。
     事件の後、すぐに全世界が、犯人は ラバニ・ハリロフだと騒ぎ立てました。何の証拠もなしに
     です。2-3日後、彼の父親がテレビに登場し、自分の息子を非難し、もし目の前に現れ
     たら 自分の手で焼き殺してやるなどと言っておりました。テレビを見ながら考え込んで
     しまいました。「疑わしきは罰せず」 といった美しい格言は何処へ行ってしまったのかと。
      実際にやったか、やらないか事実認否の機会すら与えず、自分を弁護する可能性は、
     いったい何処にあるのでしょうか? そして 誰も彼に質問しようとすら、しないではない
     ですか? そして、彼が 答えていないということも 私は知っています。
     最も興味深いのは、今日 彼には、やっていないという最も初歩的な可能性すらないという
     ことです。そして、たとえ 彼が しゃべり、身の証しを立てようとしたとしても、無駄である
     ということです。なぜかと言いますと、彼が無実であるという身の証しを立てようとする
     相手が、まさに ダゲスタンの政府であり 治安機関であるからです。・・・
 
      何かロシア国民におっしゃりたいことは?
      率直に言ってしまうと、何も申し上げたくない。奴隷に話しかけても無駄だからです。
     奴隷というものは 本質的に 自分では何も決めないのです。
     そして、誰かが同情してくれたり、自分にとって害になると明らかな状況でさえ、主人の
     命令を実行しようとしかねないからです。で、私は ロシア国民が哀れと感じるのは、
     ロシア社会が奴隷状態にいると思えるからです。
      で、ただ一つ申し上げたいのは、よく ロシアのテレビが、平和な住民、平和な時代と
     語っていますが、ロシア国民は、戦争が あなたがた全ての家に忍び寄ってきている、
     あなたがたのロシアが 我々と闘っている以上、平和の時代に あなたがたは暮らしている
     のではないということです。ですから 全ロシアが 我々との戦争状態にあり、我々の眼から
     見たとき、あなたがたは平和な住民とは見られないということです。我々の眼から見れば
     あなたがたは、非武装の軍人であり、平和な住民とは見なし得ません
      なぜなら 大多数が チェチェン民族へのジェノサイドを肯定しているような人々は、平和
     な住民などと呼ぶわけにはいかないからです。シャリアータ(イスラム法廷)の規定する
     ところでは、我々に対し敵対的な言動をする者は、非武装であろうと敵と見なされます。
     現状では、ロシア国民は 武器を持たぬ敵以上の存在ではありません。多くの人々は、
     この問題を考えようとせず、考えたところで、どこか遠くで、チェチェン人というテロリストを
     何か国際的な悪党を、偽ドルを使う連中と闘って、そういう無頼漢を殺そうとしているのだ
     と思い込んでいるのです。自分たちの自由、この世に自由に生きる権利のために我々が
     戦っているとは考えが及んでいません。
      チェチェンで今、ドル札のために戦っている者がいるとすれば、それは第一に ロシアの
     傭兵たち(金目当ての契約志願兵)どもであり、クワーシンやトローシェフの手合いです。
     我々は自分たちの自由、自分たちの独立、そして 自分たちの信仰を守るために戦って
     います。我々は、アッラーのお導きで 自らの勝利に前進するでしょう。
              チェチェンの初代大統領、ジョハル・ドゥダーエフは、かつて「溺れる者を助けられるのは、
     溺れる者自身でしかない。」と語ったことがあります。これは、我々チェチェン抵抗運動の
     戦士にもあてはまり、ロシア国民にもあてはまる言葉です。というのは、ロシアは、いまや
     国全体が 自らの過ちという泥沼に溺れ込もうとしているのです。実際に 今日のロシアは、
     崩壊しようとしており、ロシアの嘘つき指導部が ロシア国土の一体性などと語るのは 我々
     の眼からすれば、滑稽至極です。
      今やロシアは、1万5千平方キロのチェチェンを巡って 既に10年にわたり2回の戦争を
     行い、膨大な人的損失を自らにも、また我々にも強いてきています。前の戦争(第1次
     ロシア・チェチェン戦争)の時期に、チェチェン全土の10倍にあたる 15万平方キロを中国
     に割譲しています。今も 色々な国境紛争地域で 領土は割譲され続けており、国土の
     一体性など こじつけに過ぎません。現在の戦争は、国土の一体性を隠れ蓑に続けられて
     いる、わが民族への敵対的な侵略です
      ロシア指導部が 国土の一体性を語りたいならば、まず 日々 チェチェンで失われている
     資源と毎日何十人という兵士・将校の生命の損失を招く愚行をやめて、国境線を確定し、
     彼らの住居を確立してやれ と言いたいです。現在のロシア指導部の行動を見ていると、
     祖国に尽くすという姿勢がまったく見られません。やっているのは単なる博打です。
     もっとも、これは 我々が心配することでもなく、あなたがたが考えれば良いことですね。
      ロシア国民の皆さんには、こういう例を申し上げておきたい。ロシアの戦争気違いどもが、
     今日のチェチェンで、戦争、ジハード以外のいかなる生活も知らない世代を作り出して
     しまったということをです。この若い連中は、自分の生命も重く見ないし、全ロシアを破壊
     しても 何とも思わないという世代です。彼らは ただひたすら、ロシアにより多くの被害を
     与えれば、それで良いと考える連中です。そして、こういう自然発生的な小グループを
     規制することは、私にも、またマスハドフ(大統領)にも、誰にもできないのです。彼らは
     自分たちの判断で、望むことを自律的に行おうとしています。彼らはこの戦争を、より苛烈
     なものにして行くでしょう。・・・
 
                         (つづく)

民族の住み分け~カフカス(コーカサス) 1-2-10

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1-2-9 のつづき
 
                                                                            Google  地図
   b.チェチェン共和国 (続5)
 
 4.アフマド・カディロフ 1951 - 2004
 
 1951 スターリン大粛清で 一族が移住させられていた カザフ・ソビエト社会主義共和国    の カラガンダ市で生れる。
 1957 カディロフ一族、チェチェンのシャリン地区 ツェントロイ村に帰国
 
 1968 地元の高校を卒業
   集団農場(ソフホーズ)での労働に 2年間従事
 1971 ロシア本土に移住し、 シベリアの インフラ 開発に参加(~80)
      シベリアから戻ると聖職者の道に進み、神学校を経て タシケント・イスラム大学で
   神学を修め、イスラム宗務者の称号を得る
 1986 グデルメス の副 イマーム(~88)
 1989  故郷 北カフカース地方に 最初のイスラム大学を開校、聖職者育成を進める
 1990 より研鑽を深めるべく ヨルダンに向かい、シャリーア (イスラム法学)についての
   専門的な研究に従事。
   ソ連崩壊に伴い 祖国からイスラム法の専門家として招致され、帰国。
    チェチェンでは 連邦内の自治国家に満足しない独立派と、ロシアの庇護による
   国家形成を望む連邦派に分かれて対立が起こっていた。
 1991 独立派が ロシアとの対立を含みながら チェチェン・イチケリア共和国の樹立を宣言
   すると、ジョハル・ドゥダエフ 大統領を支持して 独立派に属し、共和国 副 ムフティー
    として宗教面から政権を支える。
 1994 周辺地域の不安定化を恐れた ロシア、連邦派を支援して参戦
                                 (第一次チェチェン紛争
    カディロフは
     「 ロシア人チェチェン人より はるかに多いが、なら 1人の チェチェン人が 150人
     の ロシア人を道連れにすれば良いだけだ 」
    と述べ、自ら 政府側の武装組織を率いて ロシア軍・連邦派勢力と激しい戦闘
    を繰り広げる。
 
 1995 ドゥダエフ大統領によって 正 ムフティー に任命される
    ロシアとの戦いを正当とする ファトワー を発して抗戦の意思を明確にする
 
  1996 停戦で 一応の決着を見ると、新たに成立した アスラン・マスハドフ 政権で
    引き続いて共和国 ムフティーとして 宗教問題を統括
 
     内戦終結後、依然として 連邦派と独立派の対立が尾を引いていたが、
    これに加えて 独立派の間でも 対立が生じつつあった。
    独立派の多くは、愛国心から志願した チェチェン人兵士と、同じ イスラム教徒を
    救おうと参陣したイスラム義勇兵(ムジャヒディン )から成り立っていた。しかし
    チェチェン人とイスラム義勇兵は同じイスラム教徒ではあったが、イスラム義勇兵の多く
    は ワッハーブ派を信仰しており、チェチェン人の多数が信仰するスーフィズム
    折り合いが悪かった。
     チェチェン人のイスラム文化を代表する カディロフは、イスラム義勇兵と結びつく
    独立派内の強硬派に危機感を抱くようになった。同じく 復興の為に ロシアとの
    対立解消を目指す マスハドフ大統領も ジハードの完遂を主張する強硬派に
    手を焼いていた。
 1999 バサエフら、隣国 ダゲスタンへ義勇兵を率いて侵攻を開始(ダゲスタン戦争)、
    合わせて ロシア政府への爆弾テロを引き起こした。
    これを停戦違反と判断した ロシアのプーチン政権は 二度目の介入を決断し、
    第二次チェチェン紛争が勃発。
                      ファイル:Vladimir Putin and Akhmad Kadyrov - 22.11.2001.jpg
 
      ヴラジーミル・プーチン首相(当時)は 前紛争の英雄の一人であり、マスハドフと
    バサエフ両者敵対する カディロフの後ろ盾という形で戦争を進める事を望み、
    カディロフも 自派の司令官らと ロシア軍に協力した。
    自らの復権やワッハーブ派への攻撃が目的の一つにあるにせよ、復興に失敗
    した チェチェンの閉塞した状態への危機感も、カディロフが ロシアと手を結んだ一因
    であった事に疑いはない。
 
     進撃する ロシア軍が 首都グロズヌイ占領に成功すると、
  2000 
   7月 プーチン首相は チェチェンを再び連邦内の自治共和国に戻した上で カディロフを
    その暫定政府大統領に任命
  2003 
   10月5日 独立派が ボイコットする中での大統領選挙で、カディロフは 80.84%の
    得票を得て当選(「チェチェン共和国」初代大統領)。
     カディロフは 反対派の弾圧を行うなど 強権的な方法で統治を断行しており、
    この選挙についても 公正とは言い難い点が存在していた。
    また 彼は ロシアの支援による復興へと立場を変えており、反対派からは
    「モスクワからの影響」を指摘された。だが 終わりのない紛争に嫌気が差した
    国民の中で、ロシア主導の和平と復興を提示する カディロフ を支持する風潮が
    あったのも事実である。
 
     反対派への粛清や掃討作戦を強化する一方、カディロフは 反対派兵士に
    対して、投降すれば その罪を許して治安組織などで職を与える「恩赦」を
    出し、治安回復に努めた。
 
     カディロフ と マスハドフは 手を結んで強硬派の切り崩しを進め、リーダー格だった
    シャミル・バサエフ司令官を国防大臣に迎える。
     しかし バサエフが主張を曲げずに政権を離脱すると、マスハドフは 強硬派の
    分断を狙って、ワッハーブ派を庇護する姿勢を見せた。これに激怒した カディロフ
    は マスハドフを批判したが、逆に マフティーから解任され政権から追放される。
 
  2004
   5月9日 カディロフ大統領、グロズヌイの競技場で 対独戦 勝利を祝う戦勝記念
    式典に 政府や軍の高官らと出席。
    競技場に設置されていた爆弾で 特等観覧席が吹き飛ばされ即死。
     ( 2人の護衛兵士と共和国議会議長、ロイター通信の記者を初め 30人以上
     の要人も死亡。また 致命傷は免れたたが ロシア軍のヴァレリー・バラノフ大佐
     など 56名が重傷を負う )
    突然の事態に 競技場は大混乱に陥った。
         政府側やロシア政府は “独立派によるテロ” と断定し、独立派側は “占領軍
    の特務機関が仕組んだ自作自演”と主張。
    しかし、後に シャミル・バサエフ 司令官が犯行声明を発表した。
     10日 プーチン政権は カディロフへ ロシア連邦英雄の称号の授与を決めた。
 
    カディロフの死亡により 首相 セルゲイ・アブラモフが大統領代行に就任。
   大統領警護隊長を務めていた カディロフの次男である ラムザン・カディロフ
   第一副首相に任命された。
 
    ラムザン・カディロフ副首相は 父の威光 と ロシア政府の支援を背景に
  2007 3月2日 第3代大統領に就任
  2010 8月 「 国に大統領は 1人だけ 」と主張して 大統領職名称変更提唱。
               議会の議決により、9月2日より役職名が「首長」となる。
       ~~ 父親を神格化して個人崇拝色を強めつつある
 
 
                2012年3月7日ジュディス・マトロフ
     チェチェン共和国の首都グロズヌイでは、かつての瓦礫や人影のない通りも、
    きらびやかな店やサッカースタジアムへと変貌を遂げている。・・・
  
                2009年7月18日
     水曜日、人権活動家で、クレムリン寄りのチェチェン政府に対する著名な批判者ナターリヤ
    ・エステミロワが、政府が支援する、地域の民兵による虐待とされるものを調査していた
    ところを、拉致され、射殺された。
     エステミロワは チェチェンの首都グローズヌィの自宅を出た後、拉致された。目撃者達は
      男四人が彼女を白いラーダに押し込んでいたと語っている。彼女の死体は、数時間後、
    隣国イングーシ共和国で発見された。
     エステミロワは十代の娘を持つシングルマザーで 50歳だった。ロシアとチェチェンの血を
    ひくエステミロワは、1999年に 第二次チェチェン戦争が勃発して以来、一般市民に対する
    人権侵害を調査していた。
     殺害された当時、エステミロワは、チェチェン大統領ラムザン・カディロフの命を奪おうと
    企んでいたとして告発されていた夫婦の変死を調査していた。
    エステミロワの同僚達は、彼女の死は、カディロフのせいだとしている。カディロフは 関与
    を否定し、この活動家の殺人犯は処罰されようと述べた。あるチェチェン政府の広報担当者
    は、正式な捜査が開始されるだろうと、マスコミに語った。・・・
 
                          (未完成)
 
 
 
 
                               2014年01月17日
   【モスクワ田中洋之】ロシア南部・北カフカス地域を拠点とするイスラム武装勢力「カフカス首長国」
  指導者で、来月7日に開幕するソチ冬季五輪を狙ったテロ予告をしているドク・ウマロフ司令官
  (49)の死亡説が浮上し、波紋を広げている。死亡が事実とすれば 五輪成功を最重要課題
  とする プーチン政権にとって “得点”となるが、情報は錯綜しており、テロの脅威が取り除かれ
  たとはいえないのが現状だ。
   チェチェン共和国のカディロフ首長は 16日、「 ウマロフが (ロシア治安当局の武装勢力掃討)
  作戦で殺害されたと だいぶ前から99%確信している 」と語った。
  インタファクス通信などが伝えた。首長は 証拠として、北カフカスのダゲスタン、カバルジノ・バルカル
  両共和国で活動する複数の武装勢力指導者が ウマロフ司令官の死を悼み、後任の司令官候補
  を協議するやりとりの録音が存在していることを挙げた。
   ただ、ウマロフ司令官の遺体は見つかっておらず、現在捜索していると述べた。カディロフ首長
  は 昨年12月中旬にも ウマロフ司令官死亡説に言及していたが、根拠を示したのは 今回が
  初めて。
   これに対し、ロシア情報機関筋は 16日、インタファクス通信に対し、「 ウマロフ司令官の殺害を
  確認できない。死亡情報は持ち合わせていない 」と述べた。同日にはウマロフ司令官が登場
  する新たなビデオ映像(撮影日は不明)が関連サイトで公開された。
    ウマロフ司令官は チェチェン共和国出身で、昨年7月には「 あらゆる手段で ソチ五輪を
  粉砕する 」とする声明を出している。北カフカスでのイスラム教国の建設を掲げ 2007年に
  イスラム武装勢力「カフカス首長国」を創設したウマロフ司令官は、10年のモスクワ地下鉄爆破
  や11年のモスクワ近郊ドモジェドボ国際空港爆破など多くのテロに関与した。
  昨年末に南部ボルゴグラードで起きた連続爆破テロでは 今の所 犯行声明は出ていないが、
  ソチ五輪が間近に迫るなか、プーチン政権はテロ阻止のため国内に厳戒態勢を敷いている。
  

民族の住み分け~カフカス(コーカサス)1-2-11

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1-2-12のつづき

チェチェン総合情報 Annex

2014-02-01

#423 聖火リレーを強制される市民たちAdd Star

チェチェンニュース(転送・転載・引用歓迎)

 ソチオリンピックのための聖火が、チェチェンにも運ばれ、首都グローズヌイで
リレーがおこなわれました。日本テレビ報道しています。
 
  ソチ五輪の聖火、チェチェン共和国に  < 2014年1月30日 3:01 >

 これによれば、70万人が沿道で見守ったということですが、チェチェンの人口全部
を合わせても 100万人前後であることからすると、かなり大きな数字です。
その一方、チェチェン側のサイト、「ワイナハ・オンライン」では次のように伝えています。
 
  グローズヌイでの「虐待オリンピック」!Tuesday, 28 January 2014

 「 ロシアに占領されているイチケリア・チェチェン共和国首都グローズヌイでは、市民たちがオリンピックの聖火の歓迎の儀式に、強制的に参加させられた。
現地の情報によれば、1月28日の午前7時30分、グローズヌイのすべての住民が、
ランナーの通過する市街中心部の通りに整列させられた。そのあと、市民たちは
マイナス4度の気温の中、数時間ものあいだ待たされた。そして「聖火」が通過した
あと、人々はやっと解放された 」
 
 ということでした。チェチェンでは、親ロシア派の傀儡首長カディロフが暴力の限り
をつくしてきましたから、この情報も、とりたてて不思議なところはありません。
 
 
 

 
2014ー02-02
 

#424 チェチェンとアルカイダの関係Add Star

チェチェンニュース(転送・転載・引用歓迎)

 
チェチェン アルカイダの関係
 
 「 チェチェンをはじめとする北コーカサスには、中東からアルカイダが入り込んで、
テロを起こしている 」という説が、まるで 事実のように マスメディアで流通しています。
 これについて、ロシア歴史家 パーヴェル・ストロイノフ が語っている インタビュー を読んで
みます。 また、ここでは シリア情勢における ロシアの意図についても考察します。
 
 このインタビューは、「チェチェンセンター」 に転載されているのを見かけたのですが、
最初に掲載されたのは 「クラリオンプロジェクト」 という、イスラムの穏健化を図る
というような目的のサイトで、時期も 2012年ですが、情報そのものは真実に近い
と思いますので紹介します。

 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
アルカイダに近い イスラムテロリストロシアで活動しています。ロシアアメリカは
共通の敵と直面しているのでしょうか?
 
ストロイノフ: それは 完全に ロシア政府プロパガンダですね。これまでも 彼らは
   チェチェン人と アルカイダ を結びつけようとしてきましたが、そんなものは最初から
   ないのです。 もともと チェチェン独立運動は宗教的なものではなく、民主的な
   ナショナリストたちのものでした。
    ソ連崩壊した時、他どの連邦構成共和国もそうであったように、チェチェン
   は独立を望んだのです。
 
    1996年第一次戦争での勝利後、チェチェンイスラム国家として独立してから、
   イスラム主義者たちは チェチェンを目指しました。そして ロシア政府はそれを支援し
   ました。 イスラム主義者の諸団体内部に紛れ込ませたエージェントを通して。
   そうすることで チェチェンの信頼を落とすことができましたし、チェチェン内に浸透
   することもできたからです。
 
    その結果、ロシアチェチェンの指導部を 民主派とイスラム派に分裂させること
   ができました。 ただ、公然の秘密ですが、チェチェンの「イスラム派」リーダーたちは、
   実は その イデオロギー を信じてなどいません。 単に 中東の金持ちのスポンサー
   を金づるにするか、ロシア連邦保安局(FSB)に操縦されているだけです。
 
       FSB内部告発者であった アレクサンドル・リトビネンコが暴露したように
   ──文字通り 命を代償にして──、アルカイダのリーダーである アイマン・アル・ザワヒリ
   は、FSBのエージェントでした。
   テロ組織の 「エジプトイスラム聖戦」 の リーダー だった当時から、ザワヒリは長年、
   最重要のテロリストとして国際手配されてきました。
   1997年、彼は 突然 ロシアに現れました。北コーカサスのダゲスタンにある
   FSB秘密基地で特殊訓練を受けるためです。その後、彼はアフガニスタン
   に送られ、ビン・ラディンのナンバー2として アルカイダに参加しました。
 
    これが明らかになると、ロシア政府は説明を迫られたので
    「 ザワヒリは 不法入国者として 北コーカサスで逮捕されたが、本人と特定
       できなかったため、国外退去処分にした 」と説明しました。
   ただ、世界中で最重要手配されていた テロリストの一人を捕まえておきながら
   「特定できなかった」ので追い出したというのは、中々信じがたい言い訳です。
 
    そして、この時期に外国からやってきた イスラム伝道者のほとんどは、
   モスクワを経由して北コーカサス入りし、ロシア政府正式ビザを持っていた
   だけでなく、流暢な ロシア語を話しました。だから チェチェンの人々は、彼らが
   どんな人々であるか すぐに気がついたのです。
 
 ( ロシアシリアのアサド政権を支援していますが、これは アサドが ロシア海軍
基地の設置に賛成しているからだと言われています。もし シリア反政府勢も基地
に賛成したら、ロシア反政府側に鞍替えするでしょうか?
 
ストロイノフ: それはないですね。基地の件だけではないのです。 ロシアが アサド
   を支持するのは、西側の介入を躊躇させるためです。 その思惑は 成功して
   います。
 
    1970年代に サダトが西側に叛旗を翻して以来、 シリア中東における
   ロシアの同盟国でした。 ゴルバチョフが、ハフェズ・アサドに対して アラブ世界
   の盟主になることを勧めていますが、ゴルバチョフが言ったことも、それまで
   の政策を踏まえています。
 
    では、モスクワシリアを支援してきた理由は何か ということですが、
   それは イランをはじめ、他の独裁者テロリストを支援してきたのと同じです。
   要は ごたごたを起こしたいのです。かつては イデオロギーのためでしたが、
   今は トラブルのためのトラブルですね。最大の理由は、単純に 石油価格の
   上昇という狙いです。また、あらゆる国際紛争に関わることで、西側に対する
   カードを握っておきたいのです。
 
    だから、アサドに価値がある限り 支援を続けるでしょう。たとえば グルジ
   や、東ヨーロッパミサイル防衛といった問題で、ロシアは カードを切り、西側
   からの譲歩を勝ち取りたいわけです。海軍基地というのは問題の一部でしか
   ありません。
 
    シリア反政府勢力の勝利は、どんな勢力が トップに立つかによるでしょう。
   反政府勢力ロシアのことを「敵の味方」と、正しく理解しています。シリア
   国際社会の ゲーム の ポーン(歩)にし、シリア人の命を取引の道具にしようと
   していると。だから 彼らは ダマスカスの通りで ロシアイランの旗を焼き始め
   たのです。
 
    シリア民主化された場合、プーチンとの同盟は終わりを告げるでしょう。
   しかし、もっともありそうで 不吉なシナリオは、西側のダメな外交によって、
   チュニジアエジプトのように、イスラム主義者が勝利することです。
   そういう場合、彼らは プーチンと手を組んで もめごとを起こしたり、石油価格
   の引き上げたりするのを、プラグマチックなやり方だと考えるかもしれません。
   そうなった時には、彼らの方から基地の設置を求めるでしょうし、我々は また
   一歩後退することになるのです。
 
 
 
 
 
 

民族の住み分け~カフカス(コーカサス)1-2-12

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1-2-11 のつづく
 
1-2 北コーカサス(北カフカス)
 
                              [Google] 地図 
  首都: ナリチク         人口: 約90万人(2002)
  公用語: ロシア語カバルド語(カフカス系)、 カラチャイ・バルカル語(テュルク系)
 
   木材が重要資源であり、また 鉱物ではモリブデン石炭タングステン
  などが産出され、カバルダ・バルカルASSRにとって重要資源になっている
  ミネラルウォーターも豊富に湧き出している。
 
   バルカル人は、カバルディン人とは分離して、自分たち自身の共和国の創立
  の希望を表明している。彼らの主張するところでは、カバルディノ・バルカリアの首都
  ナリチク半分と 南部国境に隣接する山岳地帯が、彼らに帰属すべき領域だ。
   ロシア国内で活動している トルコ系の組織は、バルカル人に対して 政治的な支持
  を与えているが、バルカル人が自らのものと主張するミンギタフ地方は、カバルダ人
  にとっても、自らの伝説発祥の地なのである。
 
 

カバルダ=バルカル共和国
RANK民族名人口比率%民族名人口比率%
総数
1989年1月
国勢調査
753,531100.00
2002年10月
国勢調査
901,494100.00
1カバルダ363,49448.24カバルダ498,70255.32
2ロシア240,75031.95ロシア226,62025.14
3バルカル70,7939.39バルカル104,95111.64
4ウクライナ12,8261.70オセット9,8451.09
5オセット9,9961.33トルコ8,7700.97
6ドイツ8,5691.14ウクライナ7,5920.84
7朝鮮4,9230.65アルメニア5,3420.59
8チュルク4,1620.55朝鮮4,7220.52
9アルメニア3,5120.47チェチェン4,2410.47
10山岳ユダヤ3,1780.42タタール2,8510.32
-
その他の諸民族、
民族不明
31,3284.16
その他の諸民族、
民族不明
27,8583.09
 
   カバルド語  
    アブハズ語アディゲ語など 北西コーカサス語族(アブハズ・アディゲ語族)に属する。
   話者は 約65万人。
     主に アディゲ共和国で話される アディゲ語と近く、これをまとめて チェルケス語派
   さらに アディゲ語を 西 チェルケス語、カバルド語を 東 チェルケス語と呼ぶこともある。
    ※ 48の子音を持つのに対し、母音は 2つしかない。
 
     カラチャイ・バルカル語  テュルク諸語北西語群(キプチャク語群)
                 ダゲスタン共和国クムク語に近縁とされる 
   話者数: ロシア連邦国内で約30万人(2002年統計)
   カラチャイ方言、バルカル方言の2つの下位方言に分類される。
   1920年 アラビア文字1924年 ラテン文字1936年 キリル文字による正書法制定。
   1995年 カバルダ・バルカル共和国 1996年 カラチャイ・チェルケス共和国国家語の
  地位を与える。(言語名称は、前者が バルカル語、後者が カラチャイ語)
   現在、96%のバルカル人が カラチャイ・バルカル語 と ロシア語の二言語話者。
  学校教科書新聞、雑誌は カラチャイ・バルカル語 ロシア語の併記体制を取る雑誌
  が次第に増えてきている。
 
   バルカル人の出自は、フン族ハザールブルガール人アラン人キプチャクチェコ人
  タタール人等の民族から分かれたのではないかとされる。
  モンゴル帝国の成立(13世紀)以前、バルカル人は アラン人の民族連合の一部に
  属していたが、モンゴル帝国の侵攻で 中央カフカスの谷に退却した。
 
 
 
  この地をめぐって、ロシア帝国オスマン帝国は 17世紀から19世紀にかけて
戦闘を繰り広げたが、ついに ロシアの支配下に入った。
 
 1768  露土戦争(~74)
   ロシアは ブグ川 と ドニエプル川の間の地域、ケルチ要塞アゾフ及び沿アゾフ地方
  獲得して黒海への出口を確保し、 黒海における艦隊建造権とボスポラス海峡
   ダーダネルス海峡商船の自由通航権を獲得して、ドン川とドニエプル川は ロシアの
  農産物を運ぶ運河となって、物流の動脈としての機能をいっそう高めた
      オスマン帝国は クリミア・ハン国の支配権を放棄させられ、ワラキア モルダヴィア 
  保護領となった
   さらに、オスマン帝国は、帝国内に住む正教会信徒の保護権を ロシアに与えた
  ため、以後 これが ロシアによって 内政干渉の口実として利用され、バルカン半島
  の進出に、トルコ支配下の諸民族の独立要求を利用することとなった。
               ファイル:Crimean Khanate 1600.gif
                     クリミア・ハン国の版図(桃色)、1600年頃
 
 1827 ロシア帝国、バルカリアを併合
     9月1日 カバルディン地区、山岳自治ASSRから分割され、カバルディン自治州
        に組み替えられる
 1922 1月16日 バルカール地区、山岳自治ASSRから分割され、カバルディン自治州
     と合併して カバルダ・バルカル自治州 成立
 1936 12月5日 自治共和国に昇格
 1944 スターリン、テュルクバルカル人ナチスと協力したと非難し、住民を
    中央アジアに強制移住させる。また、バクサン渓谷を グルジアに引き渡した
    バルカル人に因んで国家の名前となっていたため、バルカルの部分は削られ、
    この地域は カバルダASSRに変名された。
    (1957年まで バルカル人の 故郷への帰参は許されなかったが、
      同年以降フルシチョフ政権下で帰国が許され、国名も以前のものに戻された
 1991 1月30日、カバルダ・バルカルASSR、 国家の主権を宣言
 
 
 
 
 
 
   チェチェン総合情報   2002.07.26
  ・・・7月17日の カフカスセンター は、独立派の放送局「ラジオ・カフカス」で放送された
 カバルディノ・バルカリアの ジャマート(イスラム武装組織)「ヤルムーク」の司令官
  セイフッラへの インタビュー を掲載した。
  ロシア当局は しばしば 「国際テロリズムとの戦い」と称して、ハッターブ や ワリド の
 ような アラブ諸国からの義勇兵が大量に チェチェンに流入しているという情報を流す
 が、北コーカサス の イスラム系山岳諸民族の参戦については、ダゲスタンの一部情報
 以外は沈黙してきた。
 
 ●抵抗の風土
  実際には ここ 10年にわたる チェチェン戦争が、周辺諸国にも大きな影響を与えて
 いる。 この際、北コーカサスの国々についてまとめておこう。 黒海の方から、アデゲイ、
 カラチャイ・チェルケシア、 カバルディノ・バルカリア、 北オセチア、 イングーシ、 チェチェン、さらに 東に
 ダゲスタン - これらの国々は、言語や基幹民族の出自が様々に違うが、共通性
 として、オスマントルコに臣従した時代に イスラム教を受容しており、武勇や礼節を
 尊ぶ精神風土を持ち、帝政ロシアの侵略と長期にわたる抵抗を続けた伝統がある。
 
  現代史の中では、ソビエト政権初期に、山岳民共和国を形成し、またスターリン時代
 には シベリア・中央アジアへの 民族が丸ごと強制移住される という責め苦を共有
 している。 ソビエト政権は 強制移住と共に 移民政策を推進し、イスラム系基幹民族
 の住むこの地に、宗教的には キリスト教系のスラブ系移民を始め、ユダヤ人や高麗人
 など、ロシア語を母語とする人々を大量に送り込んできた。
 
  カバルディノ・バルカリアの現人口 90万の半分は、ロシア語を母語とする人々
 である。1944年の スターリン による強制移住の結果、バルカル人は 人口のおよそ1/3
 を失った。 現在に至るも その打撃は大きく、バルカル人は、強制移住の対象と
 ならなかった カバルディン人に較べて 劣位に置かれている。
  カバルディノ・バルカリアイスラム武装勢力は、他のコーカサス地域の武装組織と同様に、
 チェチェン戦争に刺激されて誕生し、チェチェンに義勇兵を送り込み、ここで経験を
 積んで成長してきた。第一次チェチェン戦争に参戦し、戦死した ラスール・カゲルマゾフ の
 ような人物が、カバルディノ・バルカリアの若者に大きな影響を与えた。
 
 ●政策転換の必要性
  1998年には、アンゾル・アタバエフ  カバルディノ・バルカリアイスラム武装勢力は 自分たち
 の訓練施設を持つに至ったが、これが ロシア当局の知るところとなり、6人の戦士
 が 2000人規模の治安部隊に包囲され、9時間に及ぶ激戦の結果、負傷した一人
 を残して戦死を遂げた。治安部隊 27人の戦死者を出したが、相手が 6人だった
 とは言えず、150人の敵と戦ったと言いふらしたという。 こうした自国内の戦いと
 チェチェン戦争での実戦が、イスラム武装勢力を育て、今や数千人規模の参加者を
 得ている。
 
  このような武装勢力への参加者を生み出す一番の理由は、ロシア社会の大きな
 歪みである。豊かな資源は 一部の「財閥」等に寡占され、犠牲となった地方は
 社会混乱のツケを払わされるだけで、貧困への自由のみを享受させられている。
 その中で多くの若者は失業状態にいて、鬱屈を発散できる場は 武装闘争の場
 なのである。 こうした状況は、北コーカサス全域に多かれ少なかれ見られ、何も
 カバルディノ・バルカリアが突出しているということでもない。
 
  唯一の解決策は、ロシアが 侵略的な コーカサス政策を改め、真に この地域を平和
 で豊かな地域とすることにある。
 本来、コーカサスは 素晴らしい土地なのだ。風光は明美、万年雪を頂く山々から
 の雪解け水に恵まれた肥沃な大地、スパイシーな野菜と甘美な果物、そして
 芳醇なワイン。人情味あふれる人々。豊富な地下資源。血塗られた植民地主義
 のクビキから 人々が脱するのは いつのことなのだろうか?
 
 
                              2014/01/12
     ロシア西部北コーカサス(カフカス)地域の治安機関は1月11日、冬季五輪会場となる
    ソチの東300キロにある カバルダ・バルカル共和国の首都ナリチク(Nalchik)でテロ容疑者
    5人を逮捕した。国家テロ対策委員会は、容疑者は 国際テログループに属し、手榴弾や
    弾薬、自作の爆発装置を所持していたと述べた。国際テログループの名前は明らかに
    していない。
 
                               (未完成)

原子力ムラと検察、日本を代表する二つの"権力"

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報道ラジオ番組「ラジオフォーラム」2014/02/02
 
 
   法律とコンプライアンスの専門家として活躍する郷原さん。
   原発事故対応における東京電 ­力や証拠改ざん事件で揺れる検察など、
   巨大組織の権力とそれらが抱える問題点について ­切り込みます。
 
 
 
 ※リンクをクリックするとYouTube上で頭出し再生します
 00:32 
オープニング
 02:46 原子力ムラと検察、日本を代表するふたつの“権力”を考える(前半)
                        ゲスト:郷原信郎さん(弁護士)
 13:44 
小出裕章ジャーナル/新規制基準について
 24:49 原子力ムラと検察、日本を代表するふたつの“権力”を考える(後半)
 37:24 原発温排水が与える海洋生物への影響について
 45:37 エンディング
 
 
 
 
 
                                                 
 
 
 
 
                            

民族の住み分け~カフカス(コーカサス)1-2-13

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1ー2-12のつづき
 
                                 ヤコブ・ヘデンスコグ
 
   私の使命、私の歴史的な使命は
   ― 尊大に聞こえるが、事実だ ― 北コーカサス情勢の安定化である。
                                                                          ウラジーミル・プーチン、2000年
 
    2012年 5月7日、ウラジーミル・プーチン氏は 3度目となる ロシア連邦大統領への就任
を果たした。 1999年に ロシア政界にデビューして以来、プーチン氏は 北コーカサス地方
での出来事に密接に関与してきた。
 政治家としての そのキャリアのすべてにおいて、プーチン氏は この地域に対する
自ら強硬手段への国民の支持と、政治家としての自らへの国民の支援を勝ち取る
ために、北コーカサスにおけるテロの脅威を利用してきたのである。
テロとの戦いは また、ロシア連邦における 民主的な自由 と 権利を抑圧する口実
にも使われてきた。
  ボリス・エリツィン政権時代、首相だった頃のプーチン氏のロシア国内における人気は、
積極的な対テロ戦士としての評価の上に築かれたものであった。
1999年8月2日、チェチェンシャミル・バサエフ 並びに サウジアラビア聖戦士イブン・アル=ハッターブ
率いる反体制派グループは、チェチェンに設けた複数の拠点から ダゲスタン共和国に侵攻
した。 そして、プーチン氏が 首相に任命された翌日の8月10日には、反体制派グループ
が ダゲスタン・イスラム共和国の独立を宣言したのである。
 
 しかし、彼らの成功は短命に終わった。  ロシアの連邦・地方の法執行当局の対応
は、ダゲスタンの OMON(内務省特別部隊)1,000 人、ロシア連邦の空中機動歩兵の
派遣を含む大規模なものであった。
ロシア無慈悲な爆撃が ダゲスタン住宅街を破壊するまでには至らなかったものの、
初めて燃料気化爆弾が用いられた。8月22日、バサエフとアル=ハッターブは ダゲスタン
からの撤退を余儀なくされた。恐らく 彼ら自身も驚いたであろう。侵攻は、地元の
村人たちをはじめ、ダゲスタンの人々の圧倒的多数からも抵抗に遭ったのである。
住民たちは、自発的に市民軍を組織して対抗した。
 
 しかしながら、この敗北が、バサエフとアル=ハッターブが 1999年9月5日に第二の侵攻
を試みるのを止めることはなかった。ただし、その第二の侵攻もまた、同じ結果に
終わったのである。
 さらに、1999年9月には、一連の爆撃(ダゲスタンのブイナクスクでの爆撃が一回、ロシア
のモスクワにおける住宅街への爆撃が二回、そして 南部 ヴォルゴドンスク での爆撃が
一回)が行われ、約300人が死亡した。負傷者は合わせて1,000 人以上に上った。
 
 プーチン氏は これらの爆撃の直後、チェチェンの テロリストが事件の背後にいると断言
した。 しかし、チェチェンのアスラン・マスハドフ大統領は これを否定した。さらに、バサエフや
サルマン・ラドゥーエフなど、通常は 速やかに犯行を認める チェチェンの反体制派の指導者
たちが、1999年の住宅街への爆撃については そうした声明を出さなかったのである。その後、9月22日に リャザンのアパートの地下室で爆弾が見つかり、さらなる
疑念が持ち上がった。 この爆弾は、ロシア連邦保安庁(FSB)が支援する「訓練演習」
用の爆弾の一部であったことが、その後に確認されたのである。
 
 いずれにせよ、これらの爆撃は バサエフ と アル=ハッターブ による ダゲスタン侵攻と
合わせて、第2 次チェチェン紛争(1999 ~ 2000年)を正当化するのに使われた。
この紛争は、1999年8月26日、ロシア連邦によるチェチェンへの爆撃によって開始された
ものである。
 ダゲスタンでの危機、並びに 1999年8月から 9月にかけての爆撃に対する プーチン氏
の迅速、かつ精力的な対応は、前任の セルゲイ・ステパーシン首相の消極的な態度
とは正反対だった。ステパーシン氏は 辞任の挨拶で前任の閣僚たちに対し、
「 ロシア連邦は ダゲスタンを失う可能性がある 」と述べていた。
 
 プーチン氏は、実質的には 一晩のうちに、ほぼ無名の人物からロシアで最も人気
のある政治家になった。
2000年3月26日
に行われた その後大統領選では、共産党党首ゲンナジー・ジュガーノフ
候補に対し、第1 回投票で地滑り的大勝を収めたのである。
 大統領としての プーチン氏の正当性と、プーチン氏への支持の引き上げ、そして
第2次チェチェン紛争 と その後のチェチェンにおける対テロ政策は、ロシア連邦の所謂
「垂直権力機構」の確立に向けた口実となった。 明示されているわけではないが、
2002年に モスクワで起きた ドブロフカ劇場への攻撃、その 2年後に起きた 北オセチアの
ベスランでの学校占拠事件などのテロ攻撃は、当局に対して 報道の自由や政治的
自由を抑圧し、選挙活動における障壁を確立させる口実を与えた。
与党は これらにより、権力を一層強化させたのである。例えば、生徒たちを含め
300人以上の死者を出したベスランでの人質事件の後、ロシア連邦政府は知事の
公選制を廃止し、テロとの戦いとは 明らかな関連性のない「改革」を実施する決定
を下した。
 
 プーチン大統領が再選された 2012年においても、北コーカサス地方からの脅威は
1999~ 2000年と同様に存在していた。 投票日まであと 1週間もないという時期に、
ロシア連邦 と ウクライナの情報機関は、首相の暗殺計画を 両国の協力によって阻止
したと発表した。そして、さらに その 2か月後、ロシア連邦保安庁は容疑者とされる
テロリストを逮捕した。
2014 年に ソチで開催される予定の冬季 オリンピック を狙った大規模なテロ攻撃に
向け、秘密裏に用意していたとみられる武器を発見したとの発表も行われている。
当然ながら、首相及び大統領候補の身辺の安全は、深刻に扱わなければならない
問題である。 また、ソチに対するテロ攻撃の可能性は、現実的な問題である。
 しかしながら、そうは言うものの、一つは選挙の直前、もう一つは就任の数日前
という時期に公表された。こうした 疑惑発覚の タイミングは、これらが プーチン氏への
支持を高めるための計画の一部だったのではないかという疑念につながっている
のだ。
 北コーカサス地方における ロシア連邦の対テロ政策と、プーチン氏の関係の深さを
考慮し、本章では、プーチン大統領第1期目任期中に 北コーカサス地方の治安情勢
には変化があったのか否か、あったとすれば、それはいかなる変化であったのか
について議論する。そして また、プーチン大統領は 自らの人気を高めるために、
そして ロシア連邦における民主主義のさらなる抑圧を正当化するために、北コーカサス
地方における暴力を利用しようとしているのか否かについて、分析を試みる。
 
 9.1 ロシアの対テロ政策の特徴
 
 ソ連邦時代においては、テロ行為が行われることは稀であり、国家保安委員会
(KGB)には テロ対策の経験が ほとんどなかった。1980 年代にソ連で発生した
テロ事件は、連邦全体で わずか6 件である。航空機をハイジャックした犯人はすべて、
亡命を求めるソ連の市民だった。
 
  より複雑なテロによる脅威( 現在のロシア連邦が直面しているもの)への転換を示す
象徴的な事件は、ソ連崩壊の1カ月前、1991年11月の事件である。アエロフロートの
ツポレフTu-154 が 3人の チェチェン人にハイジャックされ、ロシア連邦が チェチェンの独立
を認めなければ、同機を爆破すると脅したのである。実行犯の一人は、シャミル・
バサエフであった。
 
 第1次チェチェン紛争後の1990年代後半までには、ロシア連邦当局は 新たなテロの
脅威への対応のあり方に適応していた。「テロリズム鎮圧法」は 1998 年以降、
ロシア連邦のテロ対策における努力の基礎となった。この法律によれば、テロとの
戦いに 主に責任を負うのは連邦保安庁(FSB)と内務省(MVD)である。
 第2次チェチェン紛争後の2001年1月には、チェチェンにおける対テロ作戦についても、
所管が 国防省からFSB に変更された。さらに 2003年7月以降は、内務省の担当
となっている。
 
 従来の対テロ法に取って替わる新たな連邦法、「テロリズム対策法」は、2006年
に施行された。新法は 国内外における対テロ作戦への武力の行使を合法化した
ものである。しかしながら、ロシア国民 並びに国内のインフラをテロの脅威から守る
ための手段については、詳細な記述がなされていない。
 同年、プーチン氏は 関連省庁からなり、FSBが主導する ハイレベルの機関、国家対
テロ委員会(NAK)を創設した。同委員会は、ロシア国内における連邦及び地域レベル
のテロ対策活動の実施にあたり、各省庁間の調整を行うものである。
 
 1990 年代後半以降、プーチン首相が就任し、第2次チェチェン紛争が始まった頃には、
ロシア連邦特殊部隊チェチェンでのテロとの戦いにおいて、より残忍な方法を用いる
ようになっていた。主に行われたのは、秘密部隊である特殊部隊の支隊が行う、
冷酷で法的認められない、中央指揮システム関与受けず実行される秘密作戦
である。こうした作戦の一つが、チェチェンの指導部を粛清するというものであった。
 
 例えば 2005年3月の、選挙で選ばれた チェチェン共和国の大統領アスラン・マスハドフ氏
の殺害である。村の鎮定には、zachistki(浄化)が幅広く用いられた証拠がある。
市民及び拘束した民兵殺害、裁判を伴わない逮捕、テロ容疑者とその家族を人質
に取ること、レイプ、証言を強要するための拷問、略奪などである。
その結果、チェチェンにおけるロシア連邦の戦いは、民兵との戦いから、全面的な抑圧
までを含んだ本格的な紛争になったのである。
 
 2004年 2月13日に カタールで チェチェンの指導者、ゼリムハン・ヤンダルビエフが殺害された
のを皮切りに、テロとの戦いは ロシア連邦の領域外へも拡大した。ヤンダルビエフ
は チェチェンの反体制派グループとアルカイダ 及びアラブ世界との交渉に関与していた。
この粛清の背後には、ロシア連邦の対外情報庁(SVR)並びに連邦軍参謀本部情報
総局(GRU)が存在すると考えられている。こうした疑いが証明されたことはない。
しかしながら、その後においても チェチェン独立派の指導者に対する 同様の先制攻撃
作戦が、トルコをはじめとする海外の移住先で行われている。
 
                          (未完成)

民族の住み分け~カフカス(コーカサス)1-2-14

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1ー2-15のつづき
 
                                 ヤコブ・ヘデンスコグ
                           (2)
                               参照: チェチェンの歴史(1985~2010) 
 
 9.2 北コーカサス地方の現在の治安情勢
 
 ロシア連邦政府は 2009年4月16日、チェチェンにおける 10年に及んだ対テロ作戦計画
は完了したと発表した。 実際に、チェチェン共和国内におけるテロ攻撃の件数は、
大幅に減少していた。そして、対テロ作戦に関する 通常業務の権限は その後、
ロシア連邦の組織から チェチェン系住民で組織される地域の治安部隊に委譲された。
 「チェチェン化」政策により、ロシア連邦政府は 紛争を連邦からの分離独立を求める
ものではなく、チェチェン内部の紛争とみなすことを可能にした。
さらに、国内人権擁護団体や国際社会からの批判の矛先を、連邦中央政権から
反らすことができたのである。
 
 地域の保安分野において 最も強力になったのは 「カディロフツィ」(カディロフ人脈)
である。この集団は、チェチェン内部の主導権争いから生まれたものであり、ロシア連邦
政府との同盟関係を築いたものである。その指導者である ラムザン・カディロフ氏は
2007 年、チェチェン大統領に任命された。
父である元大統領 アフマド・カディロフ氏は、2004 年に暗殺されている。
 主に ロシア連邦寄りである カディロフ大統領の無慈悲な支配のおかげで、チェチェンの
治安情勢は ある程度において安定した。 しかし それでも、北コーカサス地方全体
としての情勢は、ここ数年の間に悪化している。
そのため、プーチン大統領は 今後、初めて就任したとき以上に 複雑化した北コーカサス
地方への対応を 余儀なくされることになるだろう。より複雑になった このような情勢
には、同時に存在する いくつかの要因が影響している。
 
 第一に、全般的に過去数年と比べて、暴力の程度が高まっている。
前述のとおり、チェチェン ならびに周辺の共和国で 暴力が増えている理由の一部は、
2009年の チェチェンにおける対テロ作戦の終了がある。
 これにより、約2万人兵士からなる内務省国内軍が チェチェンから撤退した。チェチェン
では 飛行制限・夜間外出禁止令・道路封鎖が解除され、するとすぐに、それまでは
押え付けられていた残る反体制派グループのメンバーが活動を活発化させたのである。
 又、2009年後半以降  ロシア連邦国内発生した 3件の大規模な自爆攻撃からも、暴力が増加していることは明らかだった。 2009年11月27日には、モスクワ と サンクト
ペテルブルク ゙を結ぶ急行電車「ネフスキー・エクスプレス」の下で 爆弾1個が爆発、
2010年3月29日には、モスクワの地下鉄で 2 回の爆発が発生、2011年1月24日には、
モスクワ郊外の ドモジェドヴォ空港で 爆弾 1個が爆発した。
これら 3つの事件での犠牲者は、合わせて 100人以上に達している。
  2004年の ベスランでの学校占拠事件後、自爆攻撃の利用は 反体制活動の中から
消えた。しかしながら、2008 ~ 2009年以降、北コーカサス地方のテロ活動における
特徴的なテロ行為として復活している。さらに、これは チェチェンだけではなく、周辺
の その他の共和国でも使用される手法になっているのだ。
 
 北コーカサス地方の治安情勢の悪化を示す第二の要因は、2004 ~ 2005年以降
における 地理的な暴力の拡散である。1990年代から 2000年代初めにかけての
反体制派による暴力は、おおよそチェチェンに限定された現象だった。それが その後、
隣接する ダゲスタン共和国やイングーシ共和国にも広がったのである。
そして 現在、こうした暴力は 北コーカサス地域全体に広がっている。最大の影響を
受けているのは ダゲスタンであり、それに イングーシ、カバルダ・バルカル、チェチェンが続いて
いる。
 カラチャイ・チェルケススタヴロポリ地方のように、以前は 事実上、暴力を免れていた
地域においても(後者は ロシア人が人口の圧倒的大半を占める地域であるにもかかわらず)、
ここ数年においては 武装グループ による事件が発生している。
 チェチェンと隣接する その他の共和国については、コーカサス地方の出身者が、別の
共和国における暴力の増加に関与している場合が多い。
  例えば イングーシでは、2008 年 イスラム教徒による地下活動が活発化した。これは
主に、当時ムラト・ジャジコフ大統領の独裁統治への反発として出現したものである。
ジャジコフ大統領 2008 年後半、ロシア連邦によって解任されたが、新たに任命された
ユヌス=ベク・エフクロフ氏 もまた、状況を掌握することはできなかった。
エフクロフ大統領は、ロシア軍での功績を称えられ、ロシア連邦英雄の称号を受けた人物
であった。イングーシでの最も大きな事件は、2009年6月23日に起きた エフクロフ大統領
を狙った自動車爆弾による自爆攻撃である。 この事件によって、大統領は重傷を
負った。                     参照:イングーシ 1-2-4
 カバルダ・バルカル共和国は かつて、ほぼ間違いなく、北コーカサス地方の共和国の
中では 最も治安情勢が安定していた国の一つだった。
しかしながら、その治安は 2010 ~ 2011年に目立って悪化した。2010年だけでも、
攻撃の件数は 5倍になっている。暴力が増加した時期は、2010年3月の アンゾル・
アステミロフの殺害と、それを受けた地元のjamaat(イスラム過激派グループ)指導部の
交代の時期と重なっている。
 北コーカサス地方の最大の共和国である ダゲスタンは、2011年までに この地方で
最も暴力の多い国になった。反体制派治安部隊武力紛争による死者の約60%
が、ダゲスタンでの犠牲者である。この年の 北コーカサス地方全体での死傷者数は、
1,378人であった。民族主義分離主義といった要因が、暴動の拡大に大きな影響
を及ぼしている この地方他の共和国とは異なり、ダゲスタンでの暴力は、ほぼ
全面的に、絶望的な貧困や警察の蛮行、宗教的不寛容が原因であると考えられ
ている。
 
 北コーカサス地方の治安情勢が悪化していることを示す第三の要因は、ロシア連邦
中央政府が 現在において直面する北コーカサス地方の暴力の問題が、1990 年代
及び 2000年代初めとは 根本的に異なっているということである。
 以前主な問題は、チェチェンにおける民族的な分離主義であった。しかし、ロシア連邦
当局現在、潜在的にはより一層 困難な敵に直面している。イスラム教分離主義者
の地下活動である。彼らの目的は、この地方における政治及び社会生活イスラム化
であり、ひいては この地方全体を支配下に置く、イスラム国家の創設である。
 このイスラム分離主義運動の中核にあるのは、北コーカサス地方の すべての共和国と
クラスノダール地方、スタヴロポリ地方の一部を網羅する 実質的な イスラム国家「コーカサス
首長国」である。首長国の長である 「首長」は、チェチェンの分離独立派の指導者
であり、ロシア連邦における 数多くのテロ攻撃の実行犯として声明を出している、ドク
・ウマロフ(アラブ名:ドック・アブ・ウスマン)である。
 この武装化した地下活動組織は、ロシアの連邦 及び地方当局に対する ジハード
(聖戦)を宣言し、「占領された」領土を統一して 「解放された」地域に シャリア法を
制定することを、活動の目的として掲げている。
反体制派であるコーカサス首長国の戦闘員の数は、この地方全体でも わずか数百人
程度とみられている。彼らが 主に活動を行っているのは、ダゲスタン、イングーシ、チェチェン
である。戦闘部隊は、正式に首長国に所属する組織であり、首長に忠誠を誓う。
しかし、中央指揮系統からは 比較的、自立した立場にあり、独自の指揮権と高い
レベルの戦術的な自由を認められている。反体制派に 最も共通している作戦は、
警察署や その他の公共建物を攻撃し、政府関係者や 彼らがイスラムの教えに
背いているとみなす 地元のイスラム聖職者を殺害するため、そうした建物に爆発物
を仕掛けることである。また、前述した通り、自爆攻撃も一般的に使われている。
 反体制派は 自らを、サラフィ主義者だと主張している。サラフィ主義とは、サウジアラビア
に ルーツを持ち、コーランの厳格な解釈を主張する考え方である。自分たちこそが
“真の”イスラム教徒であると訴える サラフィ主義者たちは、長い間、北コーカサス地方では
主流を占める スーフィー主義( イスラム教えを、神秘主義の要素を含めて解釈し、この地方では
伝統的に主流派である)のイスラム指導者たちから差別され、それに苦しめられてきた。
 ところが、北コーカサス地方、とくに ダゲスタンのイスラム教社会では 今、変化が起って
いる。 ダゲスタンでは サラフィ派の活動に対する人気が高まっており、主流派になり
つつあるのだ。ただし、サラフィ主義者の全てが、暴力的な いわゆる サラフィ主義戦士
ではないことに注意することが重要である。
若いイスラム教徒
たちと、より広範なイスラム世界との 様々な接触交流によって 1990年代
にもたらされた サラフィ主義の人気の高まり、及び その普及拡大が、ソ連崩壊後の
北コーカサス地方で起きた宗教復興につながった。1990年代初めから、より多く若者
が 定期的にモスクに通い、断食を行い、日々の祈りを行うようになったのである。
そうした若者たちの多くが、中東のイスラム教国を訪れ、イスラム教の教育機関や大学
で学んだり、ハッジ(聖地メッカ 及び メディナへの巡礼) を経験したりしている。 彼らは
こうした経験を通じて、イスラム教に関する知識を大幅に高め、理解を大幅に深めた
のである。                参照:ダゲスタン寸描(2003)1-2-2
 さらに重要なことは、彼らが サラフィ主義 及びその他の急進的イスラム教の考え方に
出会ったことである。サラフィ主義は、様々な外国イスラム基金組織の努力によって、北コーカサス地方にも広まった。これら組織などは、この地方事務所を設け、新たな
モスクや イスラム学校の建設、イスラム文学の出版などを支援している。
  北コーカサス地方における 現在のイスラム社会の急進化は、ある程度において、過去
20年間の ロシアの軍の行動に対する反応ともいえる。すでに述べた通り、1990年代
後半までにはロシア連邦政府が、北コーカサス地方におけるロシア軍の行動の自由 (まず
は ロシア連邦軍、その後、内務省指揮下の国内軍とFSB 部隊) を大幅に認めた。 これらの
各組織には、「ワッハーブ主義」とは何か、「ワハビ派」とは 何者か を恣意的に定義する
権利が与えられたとも言える。 そして、これに対する反応として、武装地下組織は
イデオロギーと戦術の両方の面において、さらに 過激化したのである。
 チェチェンの民兵が愛国主義を捨て、ジハードのイデオロギーに傾倒したこと、民兵が
自爆攻撃をはじめとする テロリスト攻撃手法を採用したことが、それらを示している。
穏健な サラフィ派は、周縁化されるか 或は 急進化するかの いずれかということに
なったのである。
 ロシア連邦は 常に、自らは 地域における国際テロ活動と戦っているのだ と主張
してきた。 確かに、北コーカサス地方の反体制派の活動 と アルカイダの間には、人的・
金銭的な関わりがあった。ウサマ・ビンラディン容疑者友人と言われた アル=ハッターブは
1990年代、アルカイダの工作員だった。 また、北コーカサス地方の ムジャヒディンたちも
この時期、アフガニスタンや 1992 ~ 97年に内戦が起きた タジキスタン など、北コーカサス
とは別の場所において、世界的な聖戦の第一線で戦っていた。
 例えば、米軍が 2001年に アフガニスタンで身柄を拘束した 8人のイスラム教徒のうち
2人は、北コーカサス地方 と ヴォルガ地域の出身の カバルディン人であった。
彼らは、タリバン 及び アルカイダのために戦っていた として告発され、2002年に
グアンタナモ収容所に送致された。 2004年に行われた インタビューで、シャミル・バサエフは、
国際的なイスラム教主義者から 「定期的に」資金を受け取っていたことを認めている。
 2003年には アル=ハッターブ、2004年には ヤンダルビエフ、2006年には バサエフの 3人が
死亡し、2001年9月11日の攻撃以降、アルカイダは より分散的な ネットワーク になった。
しかし、そうは言うものの、北コーカサス地方における反体制派活動との人的・金銭的な関連は、恐らく 依然として 存在しているのである。
  コーカサス首長国
宣言にも表れているように、北コーカサスにおける聖戦士たちの活動
は 多様化する傾向にあり、活動目的組織という点においては、民族に基づいた
ものから、コーカサス地方全体のものへと変化している。現在の イスラム教徒たちの
国家への強い憧れは、世界的な聖戦に参加するという 国境を越えた夢に、取って
変わられることになるだろう。
 現時点においては、アルカイダや その他聖戦士グループとの間に 金銭面 及び兵站
面での密接な関与がないとしても、少なくとも 北コーカサス地方のイスラム急進派は、
サラフィ派聖戦士と同様のイデオロギーを持っており、また広い意味においては、コーカサス
に イスラム教のシャリア法が支配するイスラム国家を創設するという、同一の戦略的
目標を持っているのである。
 
 
 
 
                         (つづく)
 
 

民族の住み分け~カフカス(コーカサス)1-2-15

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1ー2-14 のつづき
 
                                 ヤコブ・ヘデンスコグ
                           (3)
                               参照: チェチェンの歴史(1985~2010) 
 
 9.3  北コーカサス地方に対する連邦政府の非軍事的アプローチ
 
 ロシア連邦政府は エスカレートする 北コーカサス地方の暴力と戦うために、軍事面 及び
非軍事面の双方において、様々な方法を試してきた。
その暴力は、一部地域においては ジェット戦闘機や軍の通常部隊が使われるなど、低強度紛争の特徴を帯び始めていた。ロシア連邦当局は また、北コーカサス地方の
悪化する情勢については、行政措置によって対応してきた。
 
 2010年1月、南部連邦管区一部から 新たに、北コーカサス地方連邦管区が設置
された。この改革の目的の一つは、2014 年の オリンピックを前に、南部連邦管区
ある ソチを、北コーカサス地方その他の地域から隔絶させることだったかもしれない。ロシア連邦政府の北コーカサス連邦管区大統領全権代表には、クラスノヤルスク地方の
元知事、アレクサンドル・フロポーニン氏が任命された。
 
 生活水準の向上の実現によって、反体制組織が 新たな メンバーを募るのを難しく
するため、ロシア連邦政府は 様々な措置実施している。 2010年9月、連邦政府は
2025年までの北コーカサス地方の連邦管区に関する社会・経済開発戦略を発表した。
北コーカサス地方の経済の発展に焦点を当てたものである。
さらに、2011年7月には ロシア連邦地域開発省が、2012年から 25年までの北コーカサス
地方の発展のための連邦プログラム「ロシアの南部」を発表した。 この プログラムは、
北コーカサス地方連邦管区の予算の10倍にあたる 1,250億ドル規模の投資を必要と
するものである。予算には、観光開発向けの投資失業対策費用などが含まれて
いる。 この提案は 当初、ロシア連邦の経済発展を脅かすとして、連邦財務相から
厳しく批判された。しかし、それにもかかわらず、予算は その後、最終的に承認
されるまでに 当初より 710億ドル多い 1,760億ドルに増額されている。
 
 イスラム教徒が大半を占め、汚職がはびこる 北コーカサス地方の共和国指導部に
多額の補助金を与えることについては、右派が 多くを占め、拡大を続けている
モスクワの愛国主義者グループからの批判が高まっている。 このグループは、「 コーカサス
に エサをやるな! 」とのスローガンを掲げ、活動を行っている。
 
  ソチ・オリンピックの開催を前に、フロポーニン大統領全権代表は スキー観光に
多額の投資を行っている。 しかし、結果は 今の所、まちまちである。これまでに、
フランス 及びオーストリアの投資家との間で 契約が締結されている。
しかし 同時に、テロの脅威が こうした努力の成功に疑いを持たせている。
 
  例えば、2011年2月、イスラム系反体制勢力が エルブルス管区(カバルダ・バルカル共和国
で モスクワからの観光客3人を射殺した。 また、この管区内で ケーブルカーが同時に
爆破される事件も起きた。 これを受け、NAKは エルブルス管区での対テロ作戦を計画。
同地区への観光客立ち入り一時的に禁止した。
 テロの脅威以外にも、北コーカサス地方での観光に関する新規事業の試みは、
地元の文化伝統に起因する問題に直面する。この地方では、ホスピタリティ を提供
することは名誉なことであり、料金を請求するものではないそのため、北コーカサス
地方におけるスキー観光プロジェクトは、地元住民の関与はなく、トップダウンで
決められたものである可能性が高い。
 また、連邦政府に対する反体制が強い地域への コントロール を強める方法として、
ロシア政府が行ったものであるようにもみえるのだ。さらに、土地に関する紛争の
可能性が懸念されている他、汚職に満ちているとの噂もある。
 観光業の発展を目指すためとして、魅力的な地所は すでに開発の対象地とされ
ている  ―  こうしたやり方は、決して 地元住民からの人気を得ていない。
 
 
 9.4 プーチン政権のゆくえ
 
 ロシア連邦は 未だに、問題を抱える南部地域についての 一貫した戦略を見出せ
ていない。連邦治安部隊は 2011年春、北コーカサス地方の反体制派を 地元共同体から排除することにおいて、一定の成功を収めた。 しかしながら、この地域の暴力
の継続と反体制派の活動の拡大は、現在の状況が 彼らの制圧からは 程遠いもの
だということを示している。反体制派は 「兄弟や姉妹」を亡くしても 何の問題もなく、
その穴を埋めるための 新たなメンバーを確保できているようである。
 
  さらに、その目的が 自らに対する支持拡大のためであっても、ロシア連邦において
権威主義的な法律の導入を促進する口実であっても、プーチン大統領が任期3期目
の間に、北コーカサス地方の暴力を 自らに有利な形で利用することは、一層困難に
なる可能性がある。3月の大統領選で勝利はしたものの、プーチン氏は最近、政治家
として かつてないほど、自らに対して 高まる世論の反発に直面している。
 
  プーチン大統領が率いる与党、「統一ロシア」にとっては痛手となった 2011年12月の
議会選挙以来、モスクワ 及び その他の主要都市で、反プーチンのデモが 定期的に
実施されているのだ。緩やかな組織体ではあるものの、プーチン政権下においては
かつてない規模で、デモの組織団体は 参加者を動員することに成功している。
 北コーカサス地方の反体制活動もまた、モスクワにおける政治的ムードを変えることに
成功したとみられる。 2012年2月、ドク・ウマロフは ビデオで コーカサス首長国の
反体制勢力に対する声明を発表し、ロシア市民を攻撃の標的にしないよう命じた。
「 ロシアの平和的な人々は、もはや プーチンと 彼のチェキスト政権を支持していない 」
からである。
 
 しかしながら、今の所、この声明の信ぴょう性を判断するのは困難である。仮に
連邦機関・法執行機関への攻撃が 今後も これまでどおりに 継続したとすれば、
この声明は、プーチン大統領への支持の低下と、連邦政府の対北コーカサス地方政策
に対する ロシア世論の二分化を、コーカサス首長国が利用しようとしている、ということ
を意味している可能性がある。
 
 一方では、市民を傷つけるな という声明にもかかわらず、2012年5月4日には、
ダゲスタン共和国の首都 マハチカラで 爆発物が仕掛けられた自動車2台が爆発し、
市民と救助隊員13人が死亡、100人以上が負傷している。これは、37人が死亡した
2011年1月ドモジェドヴォ空港での事件以来 最大犠牲者を出すテロ攻撃となった。
                     ドモジェドヴォ空港爆破事件 - Wikipedia 
 このように、プーチン大統領は、北コーカサス地方の共和国の腐敗した指導者たちの
懐に入ってしまう可能性が高い 連邦政府の支出と、自らの独裁的な リーダーシップ
スタイル に対する国民からの反発の高まりという 2つの問題に、同時に直面している。
 
 大統領、そして 首相として、事実上のロシア指導者の地位に就いてから12年以上
が経過し、北コーカサス地方での低強度紛争が 依然として続く中、プーチン大統領が
「 自らの政策が 北コーカサス地方の秩序を確立した 」と 再び主張することは 困難に
なるだろう。そのため、ロシアのオブザーバー や ロシア国民の大半の目には、プーチン
大統領が 北コーカサス地方における 自身の「歴史的使命」を達成した と判断できる
状況には、まだ程遠いと映っているのである。
 
                                    以上
 
 
 

スリーマイルが教えるフクシマの未来

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   「輝かしい 近代西欧」 は幻想だった。
 その幻想が破れれば、
 そこには 太古からの麗しい山河があるのではなく、
 ただ、荒涼とした 人間の欲望だけの世界が残る。
 
 我々が信じていた「輝かしい近代西欧」という幻想は、
 破られるものではなく、これを 積極的に棄てるべきものである。
 近代(日本の場合は明治維新の理念)を棄てて、
 本当にマトモな理念を見出すべきである。
 
 これが、フクシマを経験した日本人の
 ただ一つの 人類に対する存在証明である。
 
 オリンピックでメダルを取るとか、ノーベル賞をもらうとか、
 STAP細胞とか、経済成長とか、識字率の高さとか、
 領土問題とか、天皇とか、平和憲法とか、人権とか ・・・、
 そのようなことは、日本人の存在証明にはならない。 
 
 
                              合掌
 
 
 
スリーマイルが教えるフクシマの未来
                              烏賀陽 弘道
 
2.被曝を巡る論戦と訴訟の結末                    12月27日
3.地元住民が訴える健康被害の実態                01月10日
4.政府も大企業もウソをつく                  2013年01月24日
 
1.相手にされなかった町長の心配              2013年10月03日
2.電力会社に「ウソ」をつかれた町長                 10月17日
3.原発に詳しい記者なんて誰もいなかった             10月31日
4.「まったくだめ」だった電力会社の情報開示            11月14日
5.記者はなぜ原発を追わなくなったのか               11月28日
8.「がんの原因は心的ストレス」は本当か?            2014年 01月09日
9.「データに虚偽がある」と再検証した疫学者               01月.23日
10. 「放出量」で全てが変わる                            02月06日 
 
 
 
 
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